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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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この読切が面白い2013 ~小学館編~



スキャナーがほしいなぁと思う今日この頃




雑誌を読んでいると時々ガツンと胸を打つ読切作品に出会うことがあって、その突然の出会いは私の心に強い印象をもたらし、連載作品を追う「今週も面白かったな」以前の感動段階、「素晴らしい作品に出会えた」という感動をくれる、素敵な存在です。


しかし読切というものはその号限りのお楽しみ、次の週になったらその作品のことも作者のこともいつの間にか忘れてしまう、刹那的な作品です。
でも私はそんないい作品のことを忘れてしまいたくはない。できるだけ保存しておきたいし、その感動、感動をくれた作者の情報を忘れたくない。何度も読み返したいのです。



が、スキャナーを持ってない三流読者の私は、雑誌を読む中で面白い読切に出会ってもそれを保存するすべがなく、こんな感じで該当ページを無理やりひん剥くしかない。



とりあえず雑誌から引きちぎって手元に残しておくようにしています。



このマンガがスゴイとかなんとかなこの時期、私も今年一年の総まとめとして面白かった漫画を振り返ってみたいなぁなどと思ったんですが

特に印象に残っている作品はもうブログに書いちゃってるし、「僕が考えた最強の漫画2013」的なことは漫画好きの人たちがそこかしこで話し尽くしていると思うので、私は今年面白かった読切に絞ってニッチを狙っていこうかなと思います。

回顧することで作者の名前を覚えられし、いつかどこかで同じ作者さんに出くわしたときに再会の感動を得られるように。
ブログを始めたのが今年の6月からということで、6月以降の雑誌に掲載された読切の中で、特に印象に残っているものをひたすらに書き連ねていきます。







月刊スピリッツ11月号『地の底の天上』竹良実



ソクヨミで無料公開されています
今年読んだ読切の中で一番印象深かったのがこれです。工房から見放され紙幣印刷の版の贋作職人として生きる男と、病の中銅版画の技術のみを磨き人生のすべてをかけてきた原盤制作者が紙幣を通して出会い、互いを超えようとする熾烈な争いを繰り広げ奇妙な友情を紡ぐという話。

原盤制作者が作り上げた最高制度の原盤を贋作師が完璧に模倣した瞬間に、両氏がお互いの力を讃え認め合うシーンは本当に素晴らしかったなぁと思います。





月刊スピリッツ10月号『11時間』御宝百


こちらも無料公開されています。

居心地の悪い叔母夫婦の家で生活する女子高生の、イライラする生活模様から出奔までを描いた話なんですが、叔母家族(婆・母・夫・息子)それぞれに感じる嫌悪感がザラッザラのねっちょねちょで、本当に読んでてもやっとする、生々しい話でした。

言葉選びやロジックの展開が柔らかいようで毒々しい、面白いバランスを取ってます。伏線の回収も巧みです。




月刊スピリッツ1月号『小梅マーメイド』園田ゆり



高校放送部シリーズ、単行本化しないかなぁとひそかに期待しています。生活の中の面白い音をサ.ンプリングして「モノが燃える音」「人魚が泳ぐ音」「雪を踏みしめる音」等をミックスする趣味を持つ女子高生という、なかなかにマニアックなヒロインが周囲の放送部員との距離を感じたり感じなかったり、同級生に告白されてるのに音のことが気になってスルーしちゃったりする話。





現実の音ではない擬音を別の代替物で再現するという言わば正解のない難題と、人間関係のいざこざを絡めて物語が進み、さわやかな青春部活ものとしてまとまっていてとても良いです。






月刊IKKI12月号『NIJI ~ニジ~ 』谷島大恵



一人の男が何年もの間同じ位置から打ち続けたシュート、その軌道は空間に刻み込まれ記憶として記録される。



サッカーチームの監督を務める主人公は、父が終生身を粉にして探し求めた究極の軌道を描くシュートを見るために、自身のチームの若手ストライカーにその夢を託す。偶然にもストライカーは試合前に究極軌道シュートの夢を見ていて、試合中遂にその軌道を捉え、その虹の軌道を掘り起こす、という短編。






サッカーさほど好きじゃない私が食い入るように読んでしまったこの読切、「亡き父の追い求めた夢」「空間に記録された究極の軌道」といった、サッカーとはまた別の職人気質なロマン主義に面白さの源泉があるのでしょう。スポーツ漫画とは思えないほどの重厚な絵柄も素敵です。







ゲッサンmini4(11月号付録)『タロウとオフィーリア』きゅっきゅぽん



絵が好きで勉強の合間に美術館に行っては無名の画家の作品『オフィーリア』をながめている多浪中の医大受験生のもとに、絵の中のオフィーリアが飛び出してくる話。


有名なミレイの『オフィーリア』と違って人から褒められるわけでもないオフィーリアは、何かこの世で価値のあることを成し遂げたいと一念発起して外界に飛び出すんだけど、絵の具でできたオフィーリアは働くことも現実の服を着ることもできず、主人公までも医大に合格して絵画への興味を失っていき、途方に暮れる。



泣きながら家を飛び出したオフィーリアを追いかけ、絵画が好きだったころの気持ちを思い出した主人公が、雨に濡れたオフィーリアの体を塗りなおすシーン、とても良かったです。




オフィーリアってのはシェイクスピアの戯曲に出てくる魔女の名前だそうです。





講談社編に続きます。

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『思春期シンドローム』と『R-中学生』

思春期って何だったんすかね、なんかよく思い出せません。


「青春」と「思春期」って違いますよね。私の中では「青春」は思春期に経験した事件・思い出、「思春期」は中高時代謎に多感なってしまう情緒不安定な状態、って感じです。なんで「お前の青春の思い出とは?」と聞かれると、「中学の寮から深夜に脱け出し温泉街に繰り出して、夜の街のお兄さんにからかわれて泣いたこと」とか、割と具体的な経験として思い出すことができるんですよね。


ただ「思春期のお前ってどんなだった?」って聞かれると、あんまりはっきりとしたイメージが浮かばない。今もまだ年齢的には思春期のギリ延長線上にいる気がするし、思春期に抱えていたような細かい悩みも特に解消せずに残っていますが、思春期の私と今の私では心のナイフの鋭さが段違いです。もっと外に向けてとげとげした感情を抱いていたような


なので牙を失った今、あの頃の感覚を完全に思い出すことって、すごい難しいことだなぁなんて思うんす。「青春」と呼ばれる事件が起こっているとき以外の中高時代の日常を、私はどんなこと考えながら過ごしていたのだろう、などと考え、思い出せない。






中学高校時代の精神を思い出すなんて、卒業アルバム見るとかそういう創作物読むかぐらいしか方法ないんじゃないかって思うんですけど、どうでしょう。


私の思いつく方法はそれぐらいで卒業アルバムに写った自分は何かムカつくので苦手、ということで、創作物、主に漫画読むくらいしか思春期マインドを思い出すことができないんす。


でも漫画読んでて「こいつら青春してんなぁ」と思うことはあれど、「こいつら思春期だなぁ」と感じることって滅多になくて思春期の少年少女が織りなす青春事件を題材にした漫画はあれど、彼らの「思春期」そのものを題材にした漫画ってあんまりなくて、それがまた「思春期って何だったっけ?」っていう謎を深めていくのです。



そんな中、最近思春期ど真ん中な漫画を幾つか見つけてちょっとテンションが上がったので、それらの話です。




『思春期シンドローム』赤星トモ




思春期の小さい心のザワつきを「症例」と呼び、一話に十個ぐらいの症例を詰め込んで紡いでいく思春期オムニバスの第一巻です。登場キャラが全て女子高生ということもあって女子高生あるあるみたいなネタも多いんですが、それ以上に高校生の不安定で未発達な精神が引き起こす、思春期特有の思考回路がいっぱい出てくるところがこのマンガの良いところです。



ギャグっぽい話も多いですがたまに自分も当時感じていたようなモヤモヤした感覚をズバッと表してくれる言葉が出てきたりして、そのショックで思春期時代のちょっと嫌な失敗とか友達ひとりなく失くした時のこととか思い出したりが誘発されてとても良いです。



「不安と全能感の中で足掻く彼らは こんなにもこんなにも美しい」という言葉が本当にかっこよい


アフタヌーン連載の漫画なのに絵柄が少年サンデーっぽいのも好きです。







『R-中学生』ゴトウユキコ



タイトルからも伝わってくる思春期感。女性の使用後ナプキンにとてつもない興味を持ってしまった中学生、スポーツ万能容姿端麗だが「最低な男子中学生」にあこがれる野球部のエース、登場する男子中学生達は全員糞みたいにどうでもいい悩みに真剣に悩み苦しんでいます。一方女子キャラはというと男子から性的な視線を受けるようになったことに気づき、人間の性の汚い部分に触れてこれまためんどくさい悩みをかけています。





初めの方は登場人物毎の細かい悩みと、社会とのずれに苦しむさまがハイテンションで描かれていて、懐かしいような腹をえぐられるようないた気持ちい話が続くんですが、最終章で先述のナプキン君のお下劣趣味が学校中に広まってしまい全体集会、クラス会、不登校という、中高生が最も盛り上がり且つ最も恐れる「吊し上げ」事件が起こります。友人関係が壊れてしまう恐怖、社会からはみ出してしまう恐怖、思うとおりに世界が動いてくれないことへの絶望など、これは誰もが思春期の頃感じていたものなのではないかと思います。

最終章では主人公伊地知君の性的嗜好を受け入れられない人間と、理性的に受け入れようとする人間と、「グロッ!なんでこんなんで勃起すんの!?伊地知スッゲェー!!!!」っていう糞バカ男子中学生っ達の戦いが繰り広げられるんだけど、この話は「青春モノ」としても「思春期モノ」としてもすごく面白くて、私はこの漫画大好きっす。



この2作に共通して描かれていることは、少年少女達の中で渦巻く万能感と現実との乖離、そしてそんな上手くいかない思春期の苦しみが大人の目には全て輝いて見える、ということ

『思春期シンドローム』に登場する若手男性教諭は、自分たちが今も最も幸せな時間を過ごしているということに自覚がない女子高生たちに、軽い嫉妬を抱いているシーンがあります。

『R-中学生』はタイトルからわかると通り、中学生(高校生)以上の年齢の第三者の視点で描かれており、物語を補足するようなモノローグがありません。感想書きながらいつの間にか私もその視点でこれらの漫画を読んでいることに気づき、自分が思春期をとうに脱け出していたのだということを実感しました。






他には安永知澄『やさしいからだ』とか阿部共実『空が灰色だから』なんかも、思春期の少年少女達のいら立ちを描いた同じ系統の漫画として挙げられます。これらの漫画はみな読後感が似ていて、懐かしくも恐ろしい。



青春の思い出だけでなく、思春期の思考や悩みを思い出してみるのも一興、えぐみがあります。





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意味もなくメリケンサックを学ランに忍ばせたりパンチ力強化のために握力を鍛えようとしたり、ブレザーの袖から手を出さずに可愛い感じにしてる女子高生全員を呪っていたり、自分以外の人間は大した悩みを抱え図に生きていると確信していた中高時代を終えて数年、私は今後さらに年を取りそんなとがった精神を忘れ去ってしまうでしょう。



そのたびに私はこれらの古文書のような文献を発掘しては解読し、過ぎ去りし思春期を思い出して懐古的な感傷に浸ったりするのだと思います。思春期懐かしいっすねぇ。






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ギャル男vs宇宙人

ビッグコミックスピリッツにて集中連載されていた『ギャル男VS宇宙人』の単行本が発売されてたので買って読んでたんですが、まー面白かったのでその話をします。


氣志團・綾小路翔 太鼓判


作者はヤングチャンピオン『足利アナーキー』ヤングマガジン『デザート』の吉沢潤一先生、ヤンキーの本能的な言動を独特の文脈で描く方です。

この人の何がすごいって、登場人物の会話が物語上ぎりぎりのラインで成り立っていること、ヤンキーの動物的な言語コミュニケーションをかけるってことなんですよね。

ヤンキー・不良漫画って『湘南爆走族』から『クローズ』『ウダウダやってるヒマはねぇ!』『ギャングキング』『荒くれnight』『湘南純愛組』など数多くあるわけですが、往々にして主人公たちは結構頭がいいというか、コミュニケーションは一般人以上に滑らかだし組織間抗争や統治に関して卓越した能力・頭脳を持っています。

ざっくりいうと、皆とてもしっかりしていて、いろいろ考え悩みながら生きてます。これはすごく漫画的というか、現実にはヤンキーの皆が皆そんなにかっこいい生き様をとれるわけではなくて、もっと本能的に刹那的に生きてる人が多いと思うんすね。それでも漫画として読む分にはしっかりしたキャラクターが主人公やってる方が読みやすくてありがたくて、なにより頭のいいヤンキーってとってもかっこいい。


さて、この『ギャル男VS宇宙人』の登場人物はどうかというと、これはかなり現実的なギャル男をイメージして書かれていて、会話から行動から何までめっちゃ本能的・動物的、漫画の不良らしいカッコよさや頭の良さがない。渋谷あたりにごろごろいそうな感じの、近寄りがたい感じの人がわんさか出てきます。むしろヤンキーの不良としての側面を全力で引き延ばしたような


たとえば主人公の村田くんとテツさんがほかのギャル男グループの下っ端に絡まれた時の会話がこちら。



意味をなさない感情むき出しの会話、ヤンキーって実際こんな感じですよね。やくざ映画に出てくる演出された凄みも怖いけど、私はこういう半端なイきりの方が生々しくて怖いです。レトリックではなくエモーションで戦ってるギャル男の生態が伝わってきます。

その他にも大麻を家庭栽培してたり古今東西あらゆる毒物をコレクションしてる売人がいたり、仲間内でキノコ炒めてこたつを囲んで集団トリップしてたり、自分とは全く違う環境で生きるギャル男たちの日常がごろごろ出てきて、それを見るだけでも非常に面白い。ヤンキー漫画の少ないスピリッツのなかで、ギャル男達はまさに異種の存在感を放っていました。



そして、そんな刹那的な生き方をするギャル男たちのもとに突然現れた宇宙人。



村田君とテツさんは、宇宙人と援効して変な性病にかかっちゃった女友達ミュウの仇討のために、たった二人で寄生獣風の宇宙人と戦います。とてつもない怪力と自由に変形する肉体を持つ宇宙人に、生身のただのギャル男二人がどうやって戦うのか━。

「人類亜種・ギャル男VS異種・宇宙人」「未知VS未知」というのがこの漫画の肝なんですが、そんな『エイリアンVSプレデター』的な側面のほかにも、主人公含むギャル男達の生き方にもいろいろと感じることがありました。



村田君は顔がすごくデカくてツンツンに逆立てた髪の毛と合わせると「三頭身」になってしまうぐらいアンバランスな外見をしているんだけど、彼めちゃくちゃ良い奴なんですよね。先輩のテツさんや仲間のことが大好きで、仲間のためにすぐ体張っちゃうんす。彼が宇宙人と戦う羽目に合った女友達ミュウは周りから「痛い子」呼ばわりされていて、何度辞めさせてもすぐ円光するし、薬やりすぎて死にそうになったこともあるしで、腫物扱いをされているんですが、村田君はそんな彼女に対してもめちゃくちゃ優しい。ミュウが変な性病にかかっちゃったのもそもそも彼女の責任なんですが、それを責めることもせず、ガクガクにビビりながら宇宙人に対決を申し込みます。その姿はちょとかっこよくて、少年漫画の主人公っぽくも見えます。

また先輩のテツさんは、「ミュウは都会に合わない」と言って彼女を擁護する村田君に対して「自分で選んだ結果を環境や才能のせいにするな」と一喝する一方、厚い人望を駆使して宇宙人をぶちのめす準備を根回ししていたり、非常に他人思いな一面があります。

物語終盤には彼らが地方を出て東京に出てきた経緯がほのめかされるシーンがあり、彼らもまた表に出さないだけでいろんな心の傷を,、容貌と生まれという変えることのできない「環境」と「才能」を背負い乗り越え上京を決意したのだということが分かります。


他のギャル男達はいちいち言動が感情的・現実的で、宇宙人を追いかけまわしながら村田君が仲間に応援を呼ぶんですが全然話を聞いてくれない。しかし、業を煮やした村田君が相手に罵声を投げかけ挑発するとすぐさま反応し、深夜に渋谷にまで駆け出してくるという、異様な行動原理。


会話だけ抜粋
村田「今宇田川で宇宙人追いかけてんですよ…マジ来てくださいよ~」
ゴーさん「あのなバカ、マジ遊んでらんねぇの。今忙しんだよ。」
村「てめ~~~ビビッてんだろぉ?」
ゴ「ん?」
村「ん?じゃね~~よバーーーカ」
ゴ「はッ、は~~~~~~?」
村「ヴァ~~カ。ウンコマンウンコマン。一生ネクラ人生頑張ってね。ギャル汚先輩。」
ゴ「オイ…行くぞ、渋谷。」
電話で用件伝えるとか事情説明するとかめんどくさいよね。これで人間関係壊れないんだからギャル男すごい。



そのあとギャル男何十人かで宇宙人を空きビルに追い詰めるんだけど、そこからのギャル男達の行動もまた不思議。



「宇宙人のちんこしゃぶったし帰りまーす」はSF史に残る名言ではなかろうか。自分たちの行動・生活にすべての基点を置く彼らにとって宇宙人の目的とか由来とかそういった「真実」は全く持ってどうでもいいことで、「珍しい生きモノめっけたwwツイッターにあげてみんなに見せよ」っていうその場の楽しさ、仲間内との遊びといった「現実」のみがリアルで大事何すね。置いてけぼりくらった宇宙人と村田君とテツさんがこの後どうなるかは、是非単行本で読んでみてください。

こういう「異種VS異種」系の創作物で片方が人類ってのが珍しくて読んでいましたが、ヤンキー漫画としての魅力もあり、サイケデリックなトリップシーンの魅力あり、村田君は良い奴だし、面白かったですよ。『ギャル男VS宇宙人』

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えげつないようでえげつなくない、でもちょっとえげつない施川ユウキ


最近施川ユウキ先生の漫画にはまっています。たいした事件もない日常の中から錬金術式にエグ味を生み出す、ピリッと辛いブラックユーモアが癖になります。


『がんばれ!!酢めし疑獄』は表紙から凄い。






『サナギさん』
天然少女サナギさんと親友の毒舌少女フユちゃん、その周りの人間の日常




『サナギさん』は今Web漫画サイト「チャンピオンタップ」でアンコール連載始をしていて無料で読めます。

黒々強いシュールギャグのオンパレード
なかにはグロに近い生々しいブラックジョークも見られますが、ゲラゲラ笑いながら読み切ってしまいます


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グロいものをギャグとして笑い飛ばすと不謹慎ととられることもありますが、グロいものをグロく辛いものとして真っ向から受け止められるほど私の心臓は強くなく、勢いをいなしてあらぬ方向にぶん投げるのが精一杯というか

たぶんブラックジョークが苦手な人にもそんな対グロ特殊防御力は備わってないはずで、日常生活でとてつもなくグロい映像に直面したときにクリティカルヒットを食らって大ダメージを受けるぐらいなら、不謹慎でも笑いに変えて受け流してしまいたいとか思うんすね。敵と戦うには、まず受け身を極めるべきなのだと。


たとえばウサギって自分の肛門から直接糞を食べて、吸収しきれなかった栄養素を再摂取する習性があるんですが、その事実を知ったときに笑えるかドン引きするかでウサギへの心証は180度違ってくるでしょう。私は糞を食べるウサギの映像面白くて好きです。こんなことでウサギを嫌いになるのはちょっともったいない感じもします。


またホルモン異常で8本の足を生やして生まれてきた赤ん坊を見てグロいと思うだけか、「漫画の中のすごい速さで走ってる人みたいだ…」と笑えるか。人としては最低だしもっと真面目に悩むべき生命の神秘なんだけど、どちらも接し方としてはポジティブだし、必要以上に心の傷を負うよりちょっと人でなしになる方がマシかななんて思います。


本来面白くもなんともないものをこねくりまわして付加価値をつけるブラックジョークには、錬金術的な力を感じます。不条理な事柄を真面目に考えるのが面倒な私にとってブラックユーモアはなくてはならない存在であるともいえます。



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ただやはりブラックというだけあって、あまりブラックユーモアに走りすぎるとただの不謹慎で不真面目な糞人間になってしまうだけで、情操的によろしくない感じになってしまいます。



しかし、施川ユウキ先生の魅力はそんなブラックジョークのエグさだけではなく、時々やったら良い話を挟んでくる両極端な二面性なんす。

『オンノジ』
世界から突然人がいなくなってたった一人になった少女と謎の生物オンノジの終末系日常漫画




オンノジは見た目がピンクのフラミンゴ、中身は物知り男子中学生という、謎の生物


『もずくウォーキング』
日常を哲学する犬もずくの悩み


「ダモクレスの剣」の話をする野良ダルメシアンと飼い犬もずく


なにもない日常生活の退屈しのぎにありもしないえげつなさを魔術的に錬金しながらも、一方で日常を礼賛する、ツンとデレの掛け合いがグッとくるのです。



性根のひん曲がった人間がなにか感情をひねり出す時って、性格のきれいな人に比べるといろんなフィルターがかかっていると思うんすね。

世間一般の倫理道徳に懐疑的だったり、うわべだけの生半可なきれいごとは頭の中でストッパーがかかって絶対に言わない言いたくないはずなんす。また感動的な言葉を簡単に使っちゃうと安っぽくなってしまって、同じく性根のひん曲がった読者の心に響かないってことをなんとなくわかってるんじゃないかと思うんすね。

なのでそんな性格の悪そうな人が感動的な話を作ってしまうっていうのは、本当に綺麗な感情があらゆるフィルターを乗り越えて滲み出てしまった結果であるように思えて、岩清水的に私の心にじわじわ染み渡るんす。

黒々しいブラックジョークに下衆い笑みを浮かべ荒廃していた心に、突然とても優しい良い話が流れてきて「めっちゃ良い話じゃねえかちくしょう!!」とちょっと泣いてしまう、清濁織り混ぜ加減にやられてしまうことがよくあります。


古谷実や西原理恵子はその最たる例ですね。特に西原理恵子の二面性の使い分けはズルい。

『できるかな』で税務署との仁義なき戦いを繰り広げたかと思えば




『毎日かあさん』ではこんなにきれいな話をしたりする


遠藤浩輝や押切蓮介の短編も良い話が多いですね。



これは別に、性格のきれいな人間よりひねくれた人間の方が良い話ができるとかそういうわけではなく、頭のなかに良い感じの感傷が生まれてから言葉にしてアウトプットするまでの経緯に関して、私はひねくれた人間のそれの方が共感しやすいというはなしで

ひねくれてネガティブなことしか言えない自分に比べて、彼らのオルタナティブはなんと鮮やかなものかと感心するんすね。

『サナギさん』




世界をバカにしてるだけじゃいかんなぁなんて思えてきます


あまり不謹慎な笑いに走りすぎると人間性が損なわれていって本当にただの嫌な人間に成り下がってしまう気がして、ブラックジョークも過剰摂取しないようにきをつけなきゃいかんなぁ、とも感じています。

純粋な心で泣ける映画を観たり、目も当てられない笑う余地の一切ないグロ画像を検索しては強烈な精神ダメージを受けたりしながらも、その間間にブラックジョークが挟まっていれば心の起伏が緩やかになってだらっとした気持ちで生活できるように思います。


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┌(┌^o^)┐ホホォ…



「百合が嫌いな男はいない」とか
「ホモが嫌いな女はいない」とか言う人もいますが、まぁ百合嫌いな男もいるしホモ嫌いな女もいますよね。


どっちにしろそれなりに魅力があるものだからこそそんな自信を込めた発言が出るわけで、何となくわからんでもないなぁなんて思ったりします。



男が百合を好むとされる理由
みんな大好き美少女とみんな大好き美少女とが絡み合っている画は、美味しいものと美味しいものとの合体、チーズインハンバーグや『CAPCOM vs SNK』みたいなもので、美味しいに決まってるし嫌いな人はそもそもベジタリアンか格ゲーやったことない人ぐらいのもので


女がホモを好むとされる理由も、その美少年バージョンで、双方非常に単純明快な論理で構成されてんだと思います。

+に+を×すれば、そら+やで、と


またその百合ホモの世界のなかでは「綺麗なものしかいない」状況ってのが重要視されてんじゃないかなと思っていて、「綺麗ではないもの」は徹底的にその世界から排除されてるんですよね。
百合の場合は野郎が、ホモの場合は女性が全く出ない、割り込む余地が全くない純度100%な世界観が必須なわけですね。綺麗な美少女、綺麗な美少年以外はあってはならない存在なんす。


これは私のちょっとした偏見ですが、百合が好きな男の人は、同じ性別であるはずの野郎を嫌っているんじゃないかなぁなんて思ってます。自分の大好きな美少女が野郎とくっつくのが許せない的な、そんな気持ちが百合好きに走らせているのではないかと。よって百合好きの男の人は野郎同士が絡むホモ系とかすげぇ嫌いなんじゃなかろうか、など。



さて野郎の私が百合系を好むか、また野郎同士が絡むホモっぽいものを嫌っているかというと、とても微妙です。
というかどっちもそこそこ好きだしぼちぼち苦手なんですよね。そんなディープなものは読まずに、ソフト百合・ソフトホモぐらいのものをまったり享受しています。



例えば百合系だと平尾アウリの『まんがの作り方』とか好きです。



女性の漫画家二人と間に入ってくるアシスタント女性の三角関係を描いた漫画ですが、イチャコラと依存しあってぐずぐずな合体生物みたいになった二人の間にグリグリ割って入ろうとするアシスタントさんや周りの人の葛藤とか、読んでてヒリヒリします。



吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』収録の『彼女の嫌いな彼女』





ヒロインはヤンキー風の先輩(♀)に憧れているんだけど先輩はヒロインの姉に思いを寄せていて、ヒロインは姉のことを人として好きになれずにモヤモヤする、というこれまたヒリヒリする話があります。青いっすねぇ。



など、そんなに多くは読んでないですね
思いついたのはこんぐらいです






一方、ホモっぽい漫画ってなんか結構持ってるんですよね。それも少女漫画だけでなく少年・青年向けの雑誌に載ってるやつもぼちぼち


例えば三宅乱丈の『pet』





「ヤマ」と呼ばれる自分の中で最も良い記憶を分け合った超能力者と「ペット」のコンビがいがみ合う、サイキック・サスペンスっす。



記憶を分け合った人間同士の絆の深さ、危険なまでの精神依存が非常にホモホモしく、物語全体に不安定な怪しさが漂っていて面白いです。男達の嫉妬と愛憎と独占欲の応酬、まともな女性はほぼ出ません。



売野機子『MAMA』



聖歌隊育成学校の寮で渦巻く少年達の葛藤、かなりエグみのある話。少年達はみな母親関連で何かしらの心の傷を抱えていて、その傷を隠し癒すために必要以上に馴れ合ったりその果てに肉体関係に至ったりなど、竹宮恵子や萩尾望都の世代に通じる浪漫少年愛漫画。





少年達は寄宿学校で修練を積み、その声が神に見初められると「天使」へと進化し究極の美声をだせるようになるんだけど二ヶ月以内に必ず死を迎えるという、怪しい設定が少年達の儚さを高めています。10~1 5歳の少年達が天使になることを目指して、死へ向かって進んでいく、この破滅的な物語、面白いです。




ふみふみこ『ぼくらのへんたい』




女装が趣味で心も女な男の子と、母の精神療養のために死んだ姉の姿を真似る男の子と、知り合いの男性に性的関係を強要されていた男の子。三人の男の娘が運命的な出会いを果たし同族意識と同族嫌悪に揺れる、みたいな話。
志村貴子の『放浪息子』に似てますがですが、少し虐めや性、家庭崩壊などダークな面も強いです。




ソフトなホモなんで出てくる男たちも綺麗なもんで、まぁ美少年と美少年が絡んでるのは見ててホホォ…と思うぐらい、なんか綺麗なもんが絡んでんなぁぐらいの感傷です。


これらの作品に通じることとして、百合ホモ問わず、登場人物達の精神や人間関係が非常に脆く不安定であるってことが挙げられます。登場人物は往々にして心に弱味を持っていたり自分に自信をもっていなかったりで、気の迷いともとれる倒錯の結果同性愛的なものに行き着いています。

性倒錯って思春期の悩みの終末点だと思うんすよね。

そんな壊れやすく背徳的な心理描写が怪しくソフトサイケを聴いてるような不安定さが楽しいのです。ソフトサイケ青春パンクです。



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さて
自分が百合漫画をあまり読まず、ホモい漫画を多く読む理由はなんなんだろうと考えると、それは「共感」と「フィクション性」という物語を読む上で私が感じる面白要素のバランスによるものなんだと思います。


百合って野郎の私にとっては完全別世界の100%フィクションで、それはもはやファンタジー並みに実感共感を伴わない驚きの世界なんすよね。♀しかいない世界の話、「自分にもこんなこと起こるかもしれない」とか「この気持ちわかるわー」みたいなことがあまりないのです。驚きや異世界に浸る非現実への逃避、その点では少女漫画と同じ感覚で読んでますね。



一方ホモはどうか。
その世界には男しかいなくて、言ってしまえばホームグラウンドなわけです。なので登場人物達の感じてる背徳感とか、ギリギリ想像できる範囲内なんすね。少年達の同性愛は傷つきやすい思春期の葛藤の行く末とすれば、そのホモは質の高い青春ものともとれると思うんす。


またこれは私に限った話なんですが

売野機子の『MAMA』や萩尾望都の『トーマの心臓』なんかは閉鎖的な男子寄宿舎の中の話で、私も中高一貫男子寮の学校に通っていたので似たような事例を見たことがあったり経験しそうになったりと、その手の話にはギリ共感できるんですよね。

とはいえ野郎同士の愛情ってのはさすがに抱いたことのない感情なので、そこはやっぱり自分にとって非現実的なフィクションなんです。


フィクションの面白さって自分の中の常識とか想像できる範囲からどれだけ物語の内容がかけ離れているか、その距離の絶対値に関係してるんだと思うんすね。

百合は私の範疇から激しくかけ離れているが共感はできない。ホモは私の範疇からかなりぶっ飛んでいながらも共感・理解できる部分もある。そのバランスが私にとっては丁度良く面白く読めるんだと思います。



そういや高校の同級生でホモ(女装が趣味)の人がいたんですが、彼は男の娘系の話の『ゆびさきミルクティー』を絶賛していました。彼はあの漫画をフィクション性よりも共感で読んでたんじゃないかなぁなんて思います。



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まぁでも百合嫌いな男もホモ嫌いな女も、百合嫌いな女もホモ嫌いな男も世の中にはたくさんいるし、生理的に無理って感じてる人も多いはずなので、冒頭のあの文句を見ながら私も自分の趣味・好きな漫画を押し付けたりしないようにしたいなぁなんて思いましたよ。

あと私は断じてホモではないです。
これは強調しておかないとマズイ。

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