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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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『五大湖フルバースト』から『バチバチBURST』へ


私の父親は先述の通り非常に攻撃的な性格で、鬼か蜂かと思うほど気が短く沸点が低いので、幼いころから怒鳴られひっぱたかれしていた私にとってとても接しにくい存在です。塾の講師である父のもとで毎日勉強をさせられ、宿題を忘れるたびに職員室へ引きずりこまれて小一時間折檻くらっていたんですが、私はすぐに怒る父のことをひどく恐れて大嫌いになり、ちょっと反抗心も混ざってきて、宿題を一切やらない子に育ちました。父の方も、私が全く父になついていないことを自覚しているそうでしょっちゅう母親に私のことで愚痴を言ってるとか


 


 


そんな感じで私の父子関係はとても希薄で、クレヨンしんちゃんの野原一家のような仲の良さは素敵だと思う一方、全く共感はできない。




 


 


『五大湖フルバースト』のような父子関係はすごくしっくりくるんだけど『クレヨンしんちゃん』の野原父子はちょっと非現実的に見えてしまう。


 


 


きっと最近の家庭の父子関係というものも、前時代的な『サザエさん』系から『クレヨンしんちゃん』の方に移行していて、父親は優しく家族思いで頼りになる存在でありながらも、日常的には母親と対等かやや尻に敷かれるぐらいの力関係で子供との距離が近いところにいるんだと思うんす。


 


そして当然最近の漫画にはそういう優しい父子関係が描かれるわけで、それが私には共感として受け入れることができないし、私の中の現実とかけ離れすぎていて理想の父子関係として夢想することもできない。どっちが良い関係なのかも、まぁよくわからないんです


 


 


漫画の登場人物でいえば、私の中の父親像は手塚治虫のヒゲオヤジが近いかなぁなんて思います。『やけっぱちのマリア』ではダッチワイフに傾倒する息子の将来を案ずる父として、『ブラックジャック』では過激派組織の一員としてブラックジャックを敵視する少年の父として、ヒゲオヤジは堅物で子供のいうことを理解できず折檻によって叩き直そうとする頑固おやじの役を演じていて、その役柄が私の父親にかなり近い感じがしています。


 


 


しかし今連載しているような漫画を読んでいると前時代的な父子関係のある作品になかなか出会うことはなくて、私が父と上手くやっていくうえでのヒントをくれそうな漫画なんてなかなか見つからない。自分の本棚を改めてみてみれば、やはり父子の関係は現代的なものが多く、自分の家と似ているものを探せばそれは歴史ものだったりファンタジー的な血族の争いの話だったりで、今もなお残る前時代的父子関係が描かれた漫画ってすげぇ少ないなーて感じてます。


 


 


ヒゲオヤジが演じた上記の二つの父親の役、『やけっぱちのマリア』では最後まで息子と和解することはなく半ば決裂気味に話が終わっていて、『ブラックジャック』の方では父が息子の身代わりになって死んでしまい、父の肉体の一部を移植して助かった息子が感謝し涙するみたいな結末で、どちらもすごくいい話で好きなんですが、私が父と上手くやっていくうえで活用できる方法ではありません。


 


 


前時代的な父子関係にある子供が、精神的に覆いかぶさってくる父という壁というかコンプレックスのようなものを精神的に乗り越えていくような話があればいいなと思うんですね。


 



遠藤浩輝先生の短編集にある『きっとかわいい女の子だから』の主人公、娘が父に対して抱いている嫌悪感とか、父親より自分の方が利口だと思いたい、利口さを見せつけたくなる思春期感とかすごいグッとくるんですが、この娘最終的に父親とその再婚相手に肉体的な暴力を振るってしまうので、それはちょっとよろしくないなぁと思うんです。


 


 

私は別に父親を殺したいわけではなく、何とかうまくやっていきたいだけなので、参考にはできないです。父子関係という目線で見なければ、利口になりきれず結局暴力に走ってしまう子供っぽさとか、そういう思春期の不完全さがえげつない描かれ方してて、すごく好きな作品ではあります。






今少年チャンピオンでやってる『バチバチBURST』(『バチバチ』(全16巻)の続編)がすごく好きなんですが、この漫画の主人公・鯉太郎とそのライバル・王虎の両名の父親がなかなかにアレな父親で、その両家の父子関係がすごく好きなんですよね。


 


期せずして、また相撲漫画です。



かつて横綱の実力があると言われながら運命の試合直前に暴力事件を起こし角界を追われ、自堕落な生活の末に泥酔しトレーラーに突っ込んで死んだ伝説の暴れん坊力士・火竜。父が残した汚名にさらされ幼少期からすさまじい怒りの感情を周りにぶつけ、不良少年に育ってしまった火竜の息子・鮫島鯉太郎。『バチバチ』は自分の人生を狂わせた相撲への怒りと、その屈強な身体能力を買われ相撲部屋に勧誘された鯉太郎が、父さながらのぶちかまし相撲で成り上がっていくという、チャンピオン的相撲漫画です。


 


主人公の鯉太郎と亡き父・火竜の関係性はちょっと変わっていて


火竜の生前、全盛期の時代を見ていた鯉太郎は父を心の底から尊敬していて、周囲にも父は神になる男だと触れ回っていたほどでした。



しかし暴力事件の後、酒におぼれ落ちぶれていく父に対して鯉太郎は激怒し、父親にぶちかまし勝負を挑みます。当然鯉太郎がかなうわけもなく吹き飛ばされてしまうのですが、弱い自分が今の父の汚名を晴らすことはできないと悟って悔し涙を流します。









火竜の死後、鯉太郎は毎日庭の木に向かってぶちかましの練習をしたり相撲への執念を見せ、父が自分に臨んだ相撲界での成功を果たしてやろうとするんですが、相撲界に入る前と後では鯉太郎の父に対する気持ちが少し変化しているんですよね。


 


相撲界へ入るきっかけは父の無念と、父を追いやった社会への怒りであることは間違いないのですが、その後の鯉太郎の相撲界での活躍、戦いへのモチベーションは全て自分の中から生まれてくる闘争心によるものであって、父の無念を晴らすという意識は薄れていっています。鯉太郎は物語序盤、相撲界に入った時点から晩年の父に対するうっぷんを解消していて、そのあとは全て父とのしがらみを断ち切った鯉太郎の自分のための戦いって感じになるんす。


 


 
鯉太郎の父への怒りや葛藤は、自分が相撲界に入ることで解消され、まあ火竜はすでに死んではいるものの非常にすっきりとした父子関係に落ち着きます。



この鯉太郎の父に対する心の持ちようもスカッとしてて好きなんですが、それ以上に私はこの『バチバチ』の中で好きな父子キャラクターがいて、彼らの関係性を見届けたいがために読んでいる感もあります。







鯉太郎の最大のライバルとして王虎ってキャラクターがいるんですが、こいつは鮫島家とは全く逆の父子関係のもとで育っていて、また相撲に対する意気込みも鯉太郎とは真逆です。
そしてこいつの父との関係性が、なかなかに生々しく人間味に溢れていてすごく好きなんす。


 


 このにやにやしている変眉が王虎です。


王虎の父・虎城は現役時代横綱として25回の優勝を記録した伝説の力士なのですが、一度の優勝を経験してからは横綱の席を守ることや周囲からの期待の重圧に苦しみ、家庭内では非常に弱い姿をさらすようになります。王虎はそんな父の姿を見てみじめだと蔑み、自分は父とは違う確実で絶対の勝利をキープする横綱になってやろうと心に決め、普段の鍛錬の中で相撲部屋の後輩力士を人心操作して、裏工作から八百長まで何でもする、狡猾な力士になります。そこに父への尊敬の念は一ミリもなく、スタートの時点から彼は父を精神的に追い抜いているといえます。


 


 

敗北に怯える当時の虎城の姿は、幼い王虎の目に偽物として映ります。


父の虎城はそんな王虎のどす黒い心中を読み切ることができず恐怖し、王虎はそんな父の権力から火竜との因縁関係まですべてを利用して、鯉太郎を社会的に完膚無きに叩き潰してしまうと企てます。


しかし鯉太郎と王虎の初対決、前評判では王虎圧倒的優勢と言われていながら、鯉太郎は奇跡的な勝利を挙げます。
絶対の自信を持っていた王虎は、人生で初の敗北を、相撲を初めて一年かそこらの鯉太郎に喫します。
鮫島鯉太郎と火竜、そして鮫島親子を恐れる父・虎城を二流の力士として見下していた王虎は、父・虎城と同様に鯉太郎に恐怖を感じている自分に気づき自尊心をズタズタにやられてしまいます。


 


ここで王虎は精神的に見下していたはずの父・虎城と同等の立場に引きずりおろされます。
鯉太郎との試合の後数か月間、王虎は自分の敗北を認めることができず部屋に引きこもって狂人のようになってしまいます。



しかし先輩力士からケンカを売られたり、鯉太郎に対する凄まじい怒りと傷ついた自尊心の反発を受けて、より残忍により甘えのない取組をする冷酷な力士として、王虎は復活します。


 










その取組にはかつてのようなマスコミ向けの派手なパフォーマンスもなく、幼いころに見た父のみじめな姿と自分の敗北が重なって、反面教師的に父とは違う絶対的な存在へと自分を高めていきます。
キン肉マンに敗けた後のロビンマスクみたいな感じですね。


しかしいくら冷酷に強くなったと言っても自分を脅かす強力な力士はたくさんいて、父のような敗北に怯える人間にならぬよう、父より高い存在になるために、父の姿と結びついた敗北の恐怖を改めて乗り越えようとあがきます。


 


 



最近の話では王虎が幼いころから周囲の期待を一身に受け、父のなした偉業と同等のものを求められる重圧に苦しむ心中が描かれたシーンもあったりで、復活してなお王虎の精神に絶対の自信が戻ってはいないこと、見下していたはずの父の存在が再び重荷になってのしかかってきていることがわかります。



王虎は相撲で勝ったときにのみ父を超えることができ、負けてしまえば一気にその優位性は崩れてしまう、とても危うい精神構造をしています。
鯉太郎を含む周囲の力士に対する敵意と、勝利への執着、裏を返せば敗北への恐怖に追い立てられ、父すら味方に取れない孤独な戦いを強いられているんですね。
父を蔑み陥れ自分を高めるという方法で精神的に父の壁を乗り越えることは、父の存在が自分にとって大きければ大きいほど難しいのだなぁなどと感じます。







鯉太郎は父の無念を胸に相撲界入りしましたが、その時点で父とのしがらみは精神的に乗り越えており、なんの肩書もなく裸一貫、鮫島鯉太郎という一人の人間として戦っています。


 


一方で王虎は、始まりの時点では父を半ば蔑んでいて度外視しているものの、一度の敗北を経験してから自分は父のようになってはならないという意識を持つようになり、しがらみの中で戦っていきます。取組中に形勢が悪くなると、焦燥感に駆られ強引な極め投げを押し切ろうとして相手の体を壊しかねないような、危険な相撲を取るようになります。


 


 


どっちが良いとは言えませんが、彼らは二人とも、幼いころに感じた父への反抗心が独自の形で自身の相撲スタイルに反映されていて、反面教師として父を利用している節がある。両者の父親もまた非常に前時代的な父親であって、息子に尊敬に値しない姿を見せつけ期待や怒りを押し付けているのだけれど、息子がそれをはねのけながら親を超えようとするさまが非常に力強く、憧れます。


 


 


 


 


長々と書いたわりに自分が父親とどう付き合っていくのか解決策は見えてきていなかったりするのですが、私はこういう前時代的な父親に対抗する息子たちの話を見ると共感したり人一倍感動したりするのだと、ただそれを言いたいがための記事です。


現代的な気弱な父さんとか仲のいい親子ってのも読んでてすごくいい気持になって好きではあるのですが、最近こんなややこしい父子関係を描いた漫画があんまりない気がするので、もっと殺伐とした父子が出てくる漫画が増えてほしいし読みたいし、私はそれに共感したりしたいのです。





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『逆襲のロボとーちゃん』から『五大湖フルバースト』へ



5月頭のゴールデンウィーク中に映画『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』を観ました。9割9分親子連れのなか、一人で観るのはなかなか恥ずかしかったんですが、映画がとても面白かったのですぐにそんなことは気にならなくなりました。映画の内容は、家庭内での権威を失った日本の父親たちの悲哀を嘆く闇組織とか、そんな敵を乗り越える家族愛とか劇場版らしいテーマに加えて、ロボットになってしまったとーちゃんの人格は本物か偽物かみたいなSFの恐ろしさの要素もあって、すげぇ面白かったです。


で、しんちゃんの映画の面白さは置いといて、この映画を見て私が思い出した漫画があるんです。



それは西野マルタ先生の『五大湖フルバースト』です。


 


 


どんな話か大雑把に説明すると

近未来アメリカ・デトロイトでは自動車産業が衰退し、はるか日本から伝来した相撲がアメリカ国技として定着するほどに発展していました。



「技の横綱」と呼ばれ200連勝の偉業を達成するなど稀代の名力士として名をはせていた五大湖は突如謎の病に身を侵され、現役引退を余儀なくされます。



枯れ木のような肉体になりながらも土俵・勝利への執念が捨てきれない五大湖は、どこからともなく現れた謎の科学者ドクター・グラマラスの甘言に乗り、


 



ロボットになってしまう、という話です。


金属の塊と化しながらも現役復帰を果たしたメカ五大湖はトランスフォーム、ミサイル一斉掃射など独自の相撲スタイルで他の力士を圧倒します。技の横綱としての技術も、最大の極め手「デトロイトスペシャル」もすべてを忘れて、人間性すら失って殺戮マシーンとなり下がった五大湖に周囲の人間は失望します。


 


五大湖が作り上げてきた「技の横綱」というブランドが汚されてしまうと恐怖した協会理事長は、はるか200年前に日本から古文書と三種の神器とともに伝来し、地下に石像となって眠る「伝説の横綱」を復活させ五大湖をコテンパンにやっつけてもらうことで、醜い姿に成り果てた五大湖の最後を救うことができると考えます。


 


かくしてロボットに変身した元・技の横綱と、石像から奇跡の復活を果たした伝説の横綱の大一番が始まる、というこんなあらすじです。


 


まぁそんな突っ込みどころがデカすぎてむしろ認識できないほどぶっ飛んだ設定で、面白い漫画なんですが


 


そんな変態相撲要素とは別にこの漫画にはちゃんと、というかしっかりとヒューマンドラマの要素も入っているのですよ。


 


五大湖にはクリスという一人息子がいて、妻は交通事故で亡くなっています。


五大湖は妻が交通事故にあった時も、妻の命日にしてクリスの誕生日でもある日にも、どんなことがあっても土俵を空けることをせずに戦い続け、家庭を全く顧みない男でした。息子のクリスも、母の死に目にすら顔を見せなかった五大湖を恨んでおり、母の死後、雄々しい父へのあてつけのように指をしゃぶる仕草をして無言の抗議をするようになります。


 


でもそんなクリスが父のことを本当に嫌っているかというとそれは微妙で


 


ロボットになってまで土俵に上がろうとする父、横綱としての技を何もかも忘れてしまい伝説の横綱を前になすすべなくサンドバッグになっている父を見て、クリスは血が出るほど強く指を噛み、ついには逃げ出そうとします。


 


クリスが走り去る姿を見たメカ五大湖、息子に対して愛情を注ぐことができなかったことを心の奥で悔やんでいた五大湖のわずかな記憶が電子頭脳を刺激して、五大湖は人間性を取り戻します。


 



良いシーンですね


 


人間としての記憶とともに技の横綱としての技術も取り戻した五大湖は形勢をたて直し、伝説の横綱と大相撲を展開しますが、やはり伝説の横綱は強く土俵際いっぱいによられてしまい、五大湖はそこで敗北を受け入れます。負けることで横綱五大湖としての肩書を捨て、クリスのために愛を注ぐ父親として生きようと、クリスと父と読んでもらうために頑張ろうと心に決めるのですが


 




クリスは五大湖に父親としての五大湖ではなく、横綱としての五大湖の生きざまを求めます。


 


 


父になる気持ちでいた五大湖は一瞬絶望し、全てを悟ったように高笑いをしたのちに横綱としての五大湖の相撲魂を取り戻します。そして伝説の横綱との戦いは最高潮へと向かっていきます。


 






殺戮マシーンとなり下がった五大湖が息子への愛情をきっかけに人間性を取り戻し、そのまま父として家族の絆を取り戻すのかと思えば、ここで一気に父としての感情を捨て、ロボになる前の強烈な勝利への執念を持った横綱五大湖が戻ってくる。


そして試合の後にはまた五大湖が父としてクリスに深い愛情を示すシーンがあって、このゆさぶりが本当にたまらないなぁと感じるんですね。


 






で、しんちゃんの映画からなんでこの漫画を連想したかっていうと、まずとーちゃんがロボットになるって展開もあるんですが



人外であるがゆえに明確に父的な存在になろうとするロボット父ちゃんに対して、息子が求めるものは父としての愛情行為などではなく、父が演じてきた役割でありその人生であり、その微妙なずれがロボ父の心を傷つけてしまったり息子が困惑してしまったりするってところが、なんかいいなぁと感じていて




男の子供は、そんなに父親に対して愛情を求めてないんじゃないかとか思ったりしたんですよ


 


個人的なことなんですが、私の父はめちゃくちゃな頑固者で沸点が低くて、私も子供のころから罵声怒声ビンタなどを浴びていたのですが、いまさら父との間に愛ある関係など求めていないし、父に変わってほしいと思ってないんですよね。父はもうそういう人間として出来上がっているので、もし仲良くやっていきたいのなら私がうまいこと父とのいさかいを回避するような生き方をしなくてはならんなとか思ってます。



なので『五大湖フルバースト』のクリスの気持ちが少しわかるような気がしていて、『逆襲のロボとーちゃん』で献身的に家族に尽くそうとするロボとーちゃんに対してしんのすけ達が感じた違和感というのも、なんか想像ではありますがわかる気がするんす。


ちょっとフィクション作品のなかの父子関係の描写についても書きたくなってきたので、②に続きます。




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『花もて語れ』と感想と二次創作性②


二つ前の記事でヤングマガジンの『PACT』について自分が面白いと感じた点をまとめてみたんですが


 


記事をアップした後に『PACT』についてネットの評判はどんな感じなのかしらと調べてみたら方々でしこたま酷評されていて、それもかなり攻撃的に、愛読者の感性を疑うというような旨の意見が多くみられてちょっとびっくりしました。


 


PACT』は謎のテロリストが仕掛けた巨大窒素爆弾を除去する特殊部隊の話
批判の多くは“漫画的ご都合主義展開”と“軍事兵器に対する考察の甘さ”に向かっていました。例えば

どんな爆弾使ったら都市が丸ごと水没するような大規模地盤沈下が起こせるんだ?
とか
沈んでいくロシアの軍艦がどう見ても日本の大和じゃないか
とか
なんで水中でガトリングガンの威力が落ちてないんだ
とか…




そのどれもがもっともな内容の意見であり、私は読んでいる時に上記のような突っ込みポイントを全く気付かずに読んでいました。軍事兵器への考察に関してはまったく知見がないので何とも言えないのですが、ご都合主義的・漫画的と言われれればその通りなんですよね。


 


 


爆弾処理のたびに誰かが犠牲となって主人公の火事場のクソ力を引き出すご都合主義的な展開があったり、一度発射されたミサイルが着弾直前でプログラム操作を受けて軍艦に逆戻りしていったり





そんな馬鹿な…

海中の潜水艦の中に超高層ビルがあるという4次元ポケット現象があったり


そんな馬鹿な…


それでも私は『
PACT』がつまらない漫画だとは思っていません。それは以前に書いたブログで上げたように、私は私なりに『PACT』に面白い点を感じているからで、『PACT』の話を勝手に個人的な人生経験に関連付けて勝手に感動しているからなんですよね。それは前に書いた通りです。理知的な、冷静客観的な分析なんて、正直どうでもよくて、批判が集中する整合性云々の問題とは全く別の点に私は魅力を感じているのです。


私が漫画に求めているものってたぶん、話の構成の巧妙さとか緻密さとか、絵のうまさとかではなく、キャラクターがどんなことに巻き込まれてどう対応するかっていう、キャラクターの人生を見たいだけなんだと思うんすよね。

あれだけ多くの批判を目にしてもこの漫画を好きなままでいられるのは、批判する彼らと私とでは、物語に求めるものの優先順位が全く違うからできっとお互いに意見交換しても痛くもかゆくもない関係にあるのだと思います。彼らの意見は理知的で人間性に関わることではないので、私の心に入り込んで傷をつけてくる性質のものではないのです。

護衛隊長がマシンガンで脳天撃ち抜かれても全然生きてたり、これは漫画だから起きることなのであって現実にはそんなことは起きるはずがない。だからこの漫画は糞だ!とはどうにも思えないんす。多少非現実的なことが起こったのならば、そんな目に合っている登場人物たちが今後どんな対応をとるのか、またどんな数奇な運命をたどることになるのか、それが気になるばかりで


私が漫画について現実的な分析を入れたり、何か高尚な考察を入れたりってのが苦手な理由は、小学校のころに『キン肉マン』を読んでドハマりしたからなんじゃ ないかと思っています。『キン肉マン』が物理法則や前後関係を全く無視した表現をする漫画であることは有名ですが、私は初めて『キン肉マン』を読んだとき はそんなこと全く気にしていなくて、ただただ落ちこぼれのダメ超人がグングン強くなっていくのをかっこいいなぁかっこいいなぁと思って読んでいたんです。 体重の重い方が落下速度が速い!と言われればそうなのか!ロビンマスク逃げて!となるし






キン肉バスターとキン肉ドライバーを合体させたマッスルドッキン グはその威力が4倍以上になっていると言われれば、やっべぇペンタゴンが死んじゃう!ってアホみたいにすんなり受け入れていたんす。





筋肉バスターも筋肉ドライバーの持つ威力についても、何がそんなにすごいのかはよくわからないし、ドッキングしたことで10倍の破壊力が出る理由なんて何も書いてません。
それでも読んでる私にとって筋肉バスターはウォーズマンやバッファローマンを倒すほどの必殺技で、筋肉ドライバーは阿修羅マン・悪魔将軍でさえ破ることができなかった超必殺技、そんなものがドッキングしてしまえば、それはただただすっげぇぇえ威力のミラクル必殺技なんです。理屈はどうでもよくて、その物語の中で完成している文脈・テンションに乗って素直に感動することが楽しくてしょうがないんす。

難しいことは考えずにとりあえずストーリーの波に乗っかって、乗り終えて落ち着いたら多少読み直して考えてもいいかなぁぐらいの感覚です。『彼岸島』とか『魁!男塾』なんかもそうなんですが、突っ込みを入れてしまうとどうしてもストーリーの勢いが頭の中で止まってしまって、どうも盛り上がりきれない、突っ込みいれるの、めんどくさいんです。


まぁでも私が軍オタとか特殊部隊に所属していたりしたらこの漫画はかなり滑稽でエンターテイメント性に特化した商業的作品に見えるのだろうなとも感じました。この漫画の批判はスレッドでまとまって立っているほどたくさんあって、なんというか自分と違う目線を持つ人の感想をまとめてみることができたので、それもまたいい経験だったと思っています。







ネットで検索するといろんな感想に出会います。

褒めているものもあれば低評価のものもあるし、褒め方にしても何が面白いのかこちらには全く伝わってこないものもあるし

低評価にもそれなりに理由と原因を挙げて、何故自分がそこが悪いと感じる至ったかまでじっくり書いているものもあって

まぁでもとりあえず「科学的考証がなってないからクソ!」みたいな、客観的な尺度でもって論破するだけの割と雑な感想が多いなと感じてすごく物足りないんす。どうせならもっと踏み込んで人生観まで交えて徹底的に批判してくれよって思うんすよね


つまらない雑な感想書いてる人は、もとの作品の内容がどうあれ、つまらない感想しか書けないのはそいつのせいなので、つまらない感想自体にも批判が来ることを覚悟しておく必要があるみたいな、そんな


なんか愚痴っぽくなりそうなのでそろそろやめますが、『PACT』に関する批判が思いのほか感情的な悪意を込めたものが多くて「これ読んでるやつは出版社に踊らされて、ちゃんと細かいとこまで見れてない愚者」的なコメントを見てなんだこの野郎肯定否定の差はあれど私の方が面白い感想書いてるからな畜生!とか思って、こんな感じになりました。






 

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『花もて語れ』と感想と二次創作性①




週刊スピリッツで連載中の『花もて語れ』は朗読を題材にした漫画で小説・童話・詩・随筆など様々な文章を声に発して読むことの面白さ、声に出して初めてわかる奥深さを描いた物語で、すげぇ面白いんですね。連載は最終章の終盤を迎えていてラスト9話で完結するとか


 


 


てきとうにあらすじを説明すると


主人公の佐倉ハナは幼いころに事故で両親を亡くし、田舎に住む叔母のもとで育てられました。しかし両親を失った悲しみと慣れない方言に戸惑い重い人見知りを患って、学校でも同級生と全く話せず孤立してしまいます。クラスの学芸会でナレーションの役をやらされることとなった花は、新しく赴任した教育実習生の折口柊二に朗読の才能を見出され、題材「ブレーメンの音楽隊」を熱演し大成功を収める。この経験を糧に、ハナは自身の弱い性格変えていく活路として、朗読の道を歩んでいくこととなる、的な話ですね。


 


 


この漫画の好きなところは、朗読の題材となっている作品が読み手となるキャラクターの人生経験に基づいて独自に解釈され、読み手の人生観を混ぜた二次創作的なメッセージとして聞き手・読者へと訴えかけてくるところです。作中ではそれを「再表現アート」と銘打っています。


 


 


例えばハナが初めて朗読に挑戦した作品「ブレーメンの音楽隊」


おそらく私が初めてこの物語に触れたのは小学校の頃ぐらいだと思うのですが、『花もて語れ』を読む前に「ブレーメンの音楽隊」について抱いていた印象は、犬や鶏やら家畜やらが団結して人間の猟師たちを脅かす、昔ながらの荒唐無稽な下克上ギャグって感じでした。しかし、同じく小学生のハナが自分の人生に照らし合わせて、独自に解釈をした上で読み上げた「ブレーメンの音楽隊」は、全く別の印象として私に襲いかかってきました。


 




そもそも「ブレーメンの音楽隊」に登場する動物たちは、家畜・ペットとしての価値を無くして人間から見放された生き物たちであり、その設定は両親を亡くして一人取り残されたハナの幼い心にぐさりと刺さります。そしてハナの才能とはまさに、自身の受けた感情の傷をそのまま声に乗せて発することができることにあるのです。


 


 


私が原作を読んだとき、動物たちのセリフにこのような印象は受けなかった。何不自由なく親の庇護のもと育っている私には、動物隊の悲哀を見出すことはできませんでした。ハナの人生経験があってこそ可能な分析であり、真に感情を込めることのできる読み方なのです。動物たちの悲哀に寄り添って読まれたナレーションは、ハナの小学校がある田舎の山村において、また別の視点の共感を生みます。



 



過疎で田舎に取り残された老人たちの心に、両親に遺されたハナの孤独を乗せた朗読はぐさりと刺さります。

ハナに朗読の手ほどきをしてくれる朗読教室の先生・藤色きなり先生は次のように述べています。


 


 


 またハナの別の朗読を聞いた藤色先生は


 朗読の表現には読み手自身の人生経験に裏打ちされた「芯」というものがあり、ハナにはそれを素で実行する才能があると言っています。


 ハナの心には遺児としての孤独や、自分を支えてくれている人間に対する感謝の念が強く根付いていて、彼女の朗読には常にその感情が現れていきます。それは原作の持つ本来のメッセージ性に加えて、それを読んだハナの人生経験に裏打ちされたメッセージと、二つの要素がミックスされた全く別の再表現アートであり、読書とはまた異質な説得力を持つ表現方法なんですね。




またもうひとつ良いなと思ったことがあって




社会人になったハナが、最愛の妹を失って五年間引きこもっている取引先の社長令嬢・満里子の前で、宮沢賢治の『やまなし』を朗読する話があるのですが


 


この満里子さんは引きこもっていた五年の間、頭の中を妹のことでいっぱいにしたいと思う一心で、妹が好きだった宮沢賢治をひたすら読みふけっていた読書家で


 


発音・発声・間のとり方、感情の込め方など、読み手独自の解釈をもとに表現する朗読というものに疑問を抱き、朗読とは解釈の正解を押し付けるものなのではないかとと疑いをかけます。
しかし、朗読的な観点とハナの独自の人生観を交えて表現された朗読を聞いて満里子さんの考えは大きく変わります。『やまなし』は幼い蟹の兄弟が生命の巨大な息吹に驚嘆し、それを父蟹が優しく説明し二人を誘っていくという話で



その物語は満里子さんに妹の死を受け入れる勇気を与え
妹を亡くし5年間引き込もっていた満里子さんを何とか元気づけてやろうと頑張っていた父親のことを認め、満里子さんは外に出ることを決意します。



満里子さんを元気づけようといろんな手を尽くして話しかけるも報われない父親の気疲れを表したこのページ、何回読んでも辛くて、本当に満里子さんが悲しみを克服できてよかったなぁと思います。


 


外に出れるようになった満里子さんはこのあと、ハナと同じ藤色朗読教室に通いその世界に入り込んでいきます。彼女の朗読は読書家としての緻密さ、恵まれた環境に生まれながら自分の生き方が見つからないお嬢様としての苦悩や、妹を失った悲しみ、自分を見放すことなく接し続けてくれた父親への感謝の念に彩られていて、ハナとは似ているようで少し違う魅力を出すようになります。


 


 


藤色先生と満里子さんの二人の発言を合わせると「基となる作品をもとに人生観を語ることは何か読み方の正解を押し付けるような行為ではなく、その一つ一つが作品として独立た存在である」ってことで、それは読み手によって作品と呼べるまでに高められたものであり、その面白さはクラシックと同様に読み手の工夫に依拠する者であると




ブログとか漫画を読んだ感想についても、それは適用されるのではないかなと思っています。

私の力不足で詰まらない感想しか書けなくてもそれは基となる作品がつまらないせいではないし、たとえ世間的にはつまらないと思われている作品であっても私が面白い感想を作り出すことができれば、作品への悪口・批判を投げかけられることはない。

私が書いた感想に関する出来栄えというかエンターテイメント性っていうのは私のみに帰依するものであって、たとえ私が書いた感想がつまらなくても、原作がつまらないということではないといえること、表現の責任が分離しているってことがなんというかわたし的にすごくありがたいことで、救われるんですよね。作品への感想は二次創作的な存在であって、感想に対する評価は作品とは別個に行われるべきだと


 


他にもなどの作品を取り上げていて、朗読の面白さ、原作そのものの魅力ともども紹介されています。


斉藤隆介『花さき山』



芥川龍之介『トロッコ』



太宰治『黄金風景』



宮沢賢治『おきなぐさ』



火野葦平『皿』



その一つ一つに、『花もて語れ』の登場人物の悩みや精神の行き詰まりがリンクして描かれていて、自分には思いつかない文学作品の楽しみ方を登場人物ごとの異なる人生経験を通して提示してくれるような、本当に読んでて面白い漫画だと思います。


あと数羽で完結してしまう『花もて語れ』、話数的に今回の『瓶詰地獄』で朗読が最後になってしまうのではないかと思うのですが、私はまだまだ彼らの人生観を織り交ぜた朗読を見てみたいしもっと長くこの作品を読んでいたい。しかし終わってしまうものはしょうがない、再表現アートについていろいろ教えてくれたこの作品を最後までしっかりと追い続けていきたいと思います。


後篇に続きますが、私のブログに関する反省とかをうだうだ書いてるだけです。
特に『PACT』について、後々思ったことを書きます。






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『異法人』was not built in a day.②



『異法人』を読んで思ったことは、それなりのバックグラウンドをもって説明された思想には、それを伴わないものに比べて強い説得力を持つということ


それが悪にせよ正義にせよ、当人の人生経験の積み重ねによって紡がれた精神には強靭な力があるなぁと、思いました。

思想だけを見れば狂っているんだけどその発生過程を見れば筋が通っていて納得できる。
自分が生きる上で都合が悪いというだけで異様に見えてしまうキャラ・思想ってたまにいるよなぁって思ったので、そんな感じのことを思いついた漫画について幾つか追記を






 



グッドアフタヌーンで連載中、太田モアレ先生の『鉄風』は少し変わったスポーツ漫画で



 



並外れた身体能力・運動神経を持つヒロインはどんなスポーツもすぐにマスターしてしまい、大会に出ればさっさと優勝をしてしまう。何でもできてしまう彼女は高校生らしく試合で敗け、「敗北感」に涙する普通の青春を味わうことを渇望するようになります。





そしてその願望がいつしか捻じ曲がって苛立ちに変わり、中途半端な実力で楽しく青春を味わっているスポーツ少女を完膚無きに打ち負かして絶望させることを望むようになります。



このヒロインは決して性格が悪いわけではなく休み時間などは友達と一緒に談笑しながらお弁当を食べたりする普通の女子高生なのですが、もって生まれた身体能力と周囲からの妬み嫉みにさらされた経験から、スポーツに関してのみ異常な歪みを抱えているのです。




 



彼女の思考は一見異常なのだけれど、試合の相手だけでなく味方からすら向けられる嫉妬交じりの敵意の目に、生まれた時からずっとさらされてきたことを考えると、その思想に納得してしまうんですよね。間違っているとは、彼女にとって第三者に過ぎない、凡庸な私にはどうしても言えない。むしろ賛同し、彼女に感情移入して読んでしまっています。




 



一方ヒロインのライバルにあたる馬渡ゆず子というキャラは、天真爛漫、純粋に格闘技を愛する健康少女なんですが



 



彼女についてはバックグラウンドがほとんど明かされておらず、何故そんなにも格闘技を楽しめているのか、何故そんなにも明るく振舞っていられるのか、特に説明がされていないんですよね。ただただそういう女の子だと、言われてるだけなんす。



ヒロインと全く思考回路が違うにもかかわらずその細部が見えてこないのが、どうも気持ち悪くて不気味で、ヒロイン側に感情移入してしまっている私には理解しづらいんです。馬渡ゆず子の生態については、その人生経験による裏打ちもモノローグも何もない、理解しようにも手がかりがないんす。



 



他の漫画に出ていたら好感度の高そうなキャラクターなんですが、『鉄風』という世界の中では、私はこのキャラがとても苦手です。



 



 



 



 




 



 



悪い人には悪くなる理由・過去があったわけで、それはその人物の人間性を説明してくれて、悪の理論が根拠ある力強いものに感じられる。一方正義には正義である理由を説明する必要って特になくて、正義そのものが正当性を持つので、バックグラウンドとか今の考えに至るまでの経緯とかって、無くても当然なんですよね。普通に生きていれば人間は善良に育つし、正義の人になるはずなので、発想の根拠を必要としないんです。電化製品の初期設定のような感じですね



 



それでも漫画を読むうえで、正義と悪の話を読むうえで、私はどちらにもバックグラウンドがあってほしいと感じます。正義にしろ悪にしろ、その道を進むに至った経緯を過去を説明してほしいと、めんどくさい読者だなぁと思います



 



 



 



善悪の両者がそれぞれに、人生経験に基づいた確固たる信念を持って戦ってる話として、雷句誠先生の『どうぶつの国』はすごいなぁって思いました。



 



主人公のタロウザは全ての動物の鳴き声を理解することができる人間で、草食動物が肉食動物に捕食する断末魔を聞き悲しみ、全ての動物が殺し合うことなく仲良く生きることのできる世界を作ろうとします。肉食動物でも食べれる木の実を開発し、世界中に声を発信する装置を使って全ての動物に意思を伝えようとします。『どうぶつの国』は赤ん坊のタロウザがタヌキに拾われるところから物語が始まっているので、タロウザの味わってきた苦しみも、そこから生じた行動のモチベーションも正義の理由も、全て納得できます。



 



敵キャラのギラーは、タロウザと同じく動物の声を理解する能力を持っているのですが、動物を救わんとするタロウザとは全く違う思想を抱いています。物語の最終局面でタロウザと真っ向から対立し、世界を破壊し動物をすべて殺そうとする悪キャラなんですが、彼の発想もまたバックグラウンドに基づいていて、とても納得のいくものなんですよね。



 



ギラーは幼少期、その能力を買われてテレビ番組に出演し、天才少年として名をはせ家庭に莫大な資産をもたらしました。



しかしブームの過ぎた頃収入源を失ったギラー家は困窮する。最愛の母は病死し、父親もギラーに恨み言をいうばかりで愛情を向けることなど忘れており、ついにギラーは父親を刺し殺そうとします。刺されてからしばらく息のあった父は自分の死期を悟り、最後の最後で息子への感謝と愛の言葉を残して息を引き取ります。








この経験からギラーは「死の瞬間にのみ動物は救われ、幸せになれるのだ」と考えるようになり、禁断の巨大生物を復活させて星を丸ごと破壊しようと目論むのです。



 



 



『どうぶつの国』の善悪の戦いは、どちらもその思想に確かなバックグラウンドが存在して、説得力をもった論理のぶつかり合いになって読者に何が正しいのかを考えさせる構造になっているのが、すげぇ良いです



 



また戦いの勝敗が力によるものではなく、最終的には考えを相手に伝えることで決着がついたのが素晴らしいと思うんですよね。



 







 

アニメ『スレイヤーズ
TRY』にでてきたヴァルガーヴは古代竜の末裔で、かつて一族を皆殺しにされ迫害を受けたことを恨んで黄金竜の長老を殺害するんだけど、黄金竜と古代竜の真実を知った後罪悪感に苛まれ、いろいろあって世界浄化・再生を目論みます。彼の行為は世界の残酷さに絶望した人間が、精一杯考えた上で絞り出した苦渋の策で誰にも責めることのできないような説得力を持っていました。それに対してヒロインのリナ・インバースは死にたくねぇって一心でヴァルガーヴを倒していて、それがスレイヤーズの良いところでもあるんだけど特に論争の決着はつかないまま話が終わっています。



 



『スレイヤーズTRY』はすごく好きなアニメで、ヴァルガーヴもリナ・インバースもそれぞれにバックグラウンドを伴った確固たる思想をぶつけ合っていたのだけれど、ちょっと納得いかなかったな



 







 



正義の主人公が振りかざすのは、がっちりと固められた悪を打ち負かすほどの芯の通った正義であってほしいし、それらは善悪関係なしにバックグラウンドに基づいた人生観であってほしいんですよね。『異法人』の言葉を借りれば「命を刻み込んだ法」をぶつけ合ってほしいんす。上手くまとまりませんね。



 



 



そういや『異法人』の表・裏表紙って






一巻は燃えるような赤髪のアカ、綺麗な青のアオ



二巻は少しくすんだ赤紫のアカ、闇に囲まれて鮮やかさを失った黒っぽいアオ



三巻は青と赤が混じり合った紫がかったアカ、一巻より落ち着いていて二巻より鮮やかな青のアオ



 



って感じで、なんか青と赤で示唆に富んでるなぁなんてワクワクしましたよ。



 



 

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