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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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面白いけど辛いの話:『ちーちゃんはちょっと足りない』と『ぼくは麻里のなか』



以前ツイッラーを見てたら、とあるゲーム感想ブログのリンク(
http://gamersgeographic.com/が流れてきまして、そこにはこんな感じの文章が書いてありました。


 


面白いの逆はつまらないであり、楽しいの逆はつらい。ですから「つまらなくて楽しい」や「面白いけれどつらい」の事例は往々にして発生します。』と


 


ゲームもやらないのにうっかりこのブログをブックマークしてしまいました。


 


時に、私はここでいう「つまらなくて楽しい」とか「面白いけど辛い」という感想を、どんなものに、というかどんな漫画に感じているのかなぁと考えてみたんですが


 


「面白いけど辛い」の方に関して、ちょっと上記ブログで触れられている意味合いとは違ってきてしまうかもしれませんが、拡大解釈すると阿部共実・押見修造先生の漫画がそれにあたるなぁと思ったので、なぜ面白いと思うのか、なぜ辛いのかを掘り下げて書いてみたいと思ます。めんどくさいので以下敬称略でいきます。


 






 


阿部共実と押見修造、この両名は今とても人気にある漫画家さんなわけですが、ともに同じような評価を受けているように感じます。例えば単行本の帯には「心をえぐられるボーイミーツガール」「上手くいかない生き辛い私たちの青春」といったような紹介文があり、爽やかな精神を持って青春を謳歌することに失敗した、生き方を少しばかり誤った人間の苦しみを描く漫画家さんです。


 


しかしこの両名は似ているようで心のえぐり方が微妙に違っています。


2者の作品を読んで抉られる私の傷の具合が違うというか、単に「心をえぐる」というには説明しきれない、いやらしいえげつなさがあるようにも思うのです。両名の最近の作品を取り上げてそのエグサの違いについて、私なりの見解を書いてみたいと思います。


 


 


①阿部共実漫画:『ちーちゃんはちょっと足りない』


阿部共実漫画には、生き辛さを感じる主人公が何かしら人間関係の岐路に立たされて失敗、その後の主人公の独モノローグによって畳み掛けられる自己肯定と罪悪感がせめぎあう、という場面がよくあります。


 


阿部共実漫画のキャラクターは何か失敗をした時にとても自己肯定的な言い訳を言って自分を守ろうとしたり、他者を貶めるような発言をして相対的に自分の至らなさを目立たなくするような、しんどい生き方をしていてとても痛ましい。


 






ちゃんと話したこともないのにヤンキーっぽい人を馬鹿にしてみたり、こういうことをしてしまう精神は、私にもあります。


 


自分にそのきらいがあるだけに痛いところを突かれたような、登場人物に妙な共感を覚えてしまいそうになるのですが、一つ引っかかることがあってどうも素直に共感することができないのです。


 


 


それは、阿部共実漫画の主人公が基本的に女子高生であるという事、また阿部共実先生の絵がとてもかわいらしいタッチであり当然ながら主人公も、絵的には二次元的美少女であるという事が、私に共感とは少し違う感情を抱かせるのです。


 


主人公が作品世界の中で自分の容姿をどう思ってるかなど関係なく、阿部共実先生の絵で見るそのキャラクターは読者の私の目には美少女として映り、そんな美少女が人間関係で失敗して自分と同じような汚い悩みを抱いているという事を、私のようなブッサイク男子はどこか嬉しく感じてしまうのです。クズ的自己肯定をしてしまうのは私がブッサイクだからではないとか、美少女だって私と同じような考え方を共有しているのだとか


 


阿部共実漫画は、私の中にそんな逃げ道を作る格好の手段となってしまいそうで恐ろしいのです。私は主人公の考え方に心の奥では共感していながら、そこに救いを求めてしまわないよう、ストッパーをかけながら読んでいます。


 


彼女たちの感じている悩みは彼女たちにとってとても深刻なものだし、それは似たような生き方をしている私のも十分理解できるものなのですが、やはり彼女たちは二次元的美少女なので、私とはまた違った解決法を見出すんじゃないかと思うんです。


 


私が男であり何か悩みを打ち明けるような友達も少なく、今感じている生き辛さを解消することが難しいかを、逆に認識させられるというか、変な気持ちになります。


 


それは好きという感情とも、嫌いという感情とも違っていて、クズな私が二次元的美少女的存在に救いを求めようとしていることに気づかされる、自分のダメかげんを再確認するために読むような、そんな微妙な感想を阿部共実漫画に抱いています。


 


 




 


②押見修造漫画『ぼくは麻里のなか』


押見修造漫画もまた生き辛さを感じている人間に焦点を当てているのですが、阿部共実とは違ってクズ男を主人公においています。
一層、二次元的美少女に救いを求めさせる傾向が強く、生き辛いクズ男の心をより強く揺さぶってきます。


 


『ぼくは麻里のなか』は引きこもりニート男の精神が、いつもコンビニで見ていた可愛い女子高生の肉体に突然入ってしまうというドッキリハプニングから物語が始まります。押見先生曰く女性への変身願望、覗き見願望的なものを描いたそうで、主人公も最初はハプニングに戸惑いながら、突如始まった美少女の肉体での生活に喜びを感じ始めます。周囲からの目が侮蔑から羨望・憧憬に変わり、以前からは考えようもないVIP的待遇を受ける。人生がうまくいかないクズ男の「美少女に生まれていたら人生楽だっただろうに」というくだらない妄想をそのまんまに描いてきます。


 


ただ、押見修造漫画のえげつないところは、クズ男子の妄想を上げて落とすところにあります。それも隙を生じぬ二段構えで


 


引きこもりニートとして生きてきた主人公が突然美少女に変身したところで心に染みついた卑屈な精神はそのままなので、きらびやかで爽やかな美少女女子高生の生活に馴染めるはずがないのです。話が進むごとに最初のドッキリハプニング的な印象はどんどん不穏な空気を孕むようになり、押見修造の仕掛けたトラップが顕現してくるのです。


 


女子高生同士の女子らしい話題についていけず、クラスの男子からの性的な視線・アプローチの矢面にさらされる恐怖を味わい、さらには生理という未知の怪物の猛威にさらされて主人公の心は初期の楽しい気持ちから真逆にたたき折られてしまいます。


 


血気盛んな男子高校生に迫られる恐怖


「美少女に生まれていたら人生楽だったかも」とか、お前らの願望が叶ったと思ったか、美少女だって大変なんだよ残念でした!!みたいな恐ろしい落とし穴、押見修造のしたり顔が目に映るようです。
ちょっとでも女子高生に変身できた主人公を羨ましく思った自分が情けなくなってくる、押見先生本当にすいませんでしたみたいな、妄想に逃げようとしていたところを現行犯逮捕されたようなそんな罪悪感に包まれます。


 


しかし押見修造先生による責め苦はこれだけでは終わらず、二段構えで私を責め立てます。


 


序盤こそ主人公は女子高生としての生活様式に馴染めずに苦しむのですが、次第に自分が美少女のフレームに入っているという事、そのフレームが周囲にすさまじい影響力を持っていることを自覚し始めるというか、その肉体が自分のものであるという事に慣れ始めるのです。引きこもりニートだったはずの主人公の精神に、美少女としての自信のようなものが宿り始めるんですね。


 

ちょっと前まで女の子と目も合わせられなかった男が、女子高生・麻里に思いを寄せていた女子生徒・依に対してこんなセリフを吐くようになる。



主人公
in女子高生①はもともと自分の魂が入っていたはずの引きこもりニート主人公②が肉体と精神を伴って依然と同じように引きこもり生活をしているのを知って、接触を図ります。女子高生の姿で


 


ひきこもりニート主人公②は突然の女子高生①の訪問に戸惑う。①は、①がなぜか女子高生の体に入ってしまったこと、①と②が同じ魂を持つ存在であることを説明し、その後なぜか②の部屋で一緒にテレビゲームをします。


 


左が①、右が②。笑顔のぎこちなさに作者の悪意を感じます。
②は①が自分であるという事を一応は理解しながらも、女子高生が自分の部屋にいるという状況に興奮焦りを隠せず、一方①はそんな②の心情を察しながらもあくまで女子高生然として振舞う。


 


このシーンは女子高生の肉体に入るという突然の幸運によって引きこもりニート的生き辛さを克服してしまった①が、元の姿である②に対して圧倒的な上位性を示し、②が①に比べていかに醜い存在であったかをしこたま見せつけられる場面です。


 


そもそも①は漫画的幸運によって成り立った存在であり、自身の努力で何かを克服した存在ではありません。それが多少の環境の違いに戸惑った末に、女子高生の肉体を手にしたというだけでそれほどの優越感を得てるというのは、何とも苦しい話です。彼の本質は何も変わっていないはずなのです。そして何より②の主人公はこんなにもクズい。


 


たとえ自分と同じ精神が入っているとはいえ、自分の部屋に突然美少女の女子高生が遊びにやってきたりしたらそれは嬉しいでしょう。しかし読者の私はこの状況を全く喜べない。この②の女性慣れしていない醜い姿は、①が女子高生の肉体に入った時に羨ましいと感じてしまった私自身の姿なのではないかとすら、思えてしまいます。


①は絶対に②の醜さに気づいているはずなのに、それを過去のもののように余裕をもって流している。漫画的幸運にさらされたことが①の精神を自信にあふれた美少女のそれに近づけてしまっている。


 


しかし、やっぱり現実世界に漫画的幸運なんてありえない。私の精神が女子高生に入り込んで、それがたまたま美少女で自身に溢れた恵まれた社会環境で生きていけるみたいな、そんな状況は起こりえないのです。押見修造先生は、漫画の中で起きるような幸運は現実では絶対に起こらないということを強く意識したうえで描いてるのではないかと思います。甘ったれた妄想に逃げ、都合よく自分の悩みが救われていく世界を願うクズ男の自尊心を、粉々に砕いてきます。


 


読んだ後、妄想に逃げようとして本当にすみませんでしたと、漫画家さんに謝罪したくなる、そんな変な読後感に包まれるのです。


 


 






 


最近そういう生き辛い人の心をえぐるみたいな漫画が増えてきましたが、そういう作品にはどうしようもないぐらい救いのないブ男が、都合の良い幸運など一切なく、自分の意識と努力によって精神を改革し社会復帰していくみたいな話は少なく


 


美少女との出会いとか、特殊能力の発現とか、そんな突発的な逃げ道が設けられたものが多い。私はそういうモノを読むと、自分が現実逃避に必死になっていることを自覚させられてしまうし、何の解決にもなっていないことがわかっているので辛くなってしまいます。


 


でも、私が阿部共実・押見修造両名の漫画が嫌いかと言われればそんなことはなく、また好きとも言えず、自分の現実逃避的クズっぷりを再確認させられる作品を描いてくれるという事、そしてそこに描かれている生き辛さの悩みは理解できてしまう事、「面白いけど辛い」って感想が一番しっくりくるなぁと感じています。


 


 


美少女による逃げ道ありきの漫画もいいけど、素直な気持ちで読めるクズ男の漫画、『最強伝説黒沢』のような漫画がもっと増えてくれたらいいなぁとも思います。


 


 


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