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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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漫画の中でも人は死ぬ


 


 


私は、実写映画の中で人が死んでもあまり悲しめないんですが、それはきっとその役を演じた俳優が現実世界ではしっかり生きていることを知っているからで、実写フィクションにおける人間の死というものを、作中の事実として素直に受け取ることができないせいなんです。


 


一方、漫画やアニメなど非現実の世界に生きるキャラクター達が死んでしまうと、本当に彼らが死んでしまった、という喪失感に襲われます。非現実世界での人生が本当に終わってしまって、作者さんに生き返らせてもらえない限り、二度と彼らの生きた姿を見ることができないことを、ひしひしと感じてしまいます。しかしこれは、実写映画やドラマにおける死は嘘だから泣けない、アニメや漫画は泣ける、とかそういう類いの話ではありません。登場人物の死をその人の人生の終わりとして、私が実感しやすいかどうか、ということをいっているだけです。


 


 


非現実世界での死は、その世界の中で真実、覆すことのできない本当の死だと感じるんです。


 


 


漫画には人の死ぬシーンがたくさん出てきますが、その描かれ方によってそれがとても残酷なものであったり、真っ当な正義行使の結果であったり、面白おかしく笑えるものであったり、あるいはサラッと流されていたりと、人が一人死んだということに対する表現方法によってそこから得る感傷は違ってきます。バイオレンスな漫画を読んで人がいっぱい死んでいるシーンに触れても全く辛いと思わないこともあるし、たった一人の人間が死んだというだけですさまじい精神ダメージを感じたりします。


 


 


漫画の世界で人が死ぬというのは、本当にその世界で人が死んでしまっているという事なのに、とても辛く感じたり何とも思わなかったり、感傷の度合いが上下する。それはなんでなんだろうと、以下、漫画の中で人が死ぬ、いろいろなケースについて思ったことを脈絡なく書きます。


 


 





 


 


死というのは基本的に人に負の印象、時には嫌悪感を抱かせるはずで、バトル漫画など敵・味方問わず大量に人が死ぬ物語においては、その暗い感じをできるだけ軽減させ別の感情にすり替えるために、一人のキャラが死ぬという展開に正当性、納得のいく理由を持たせる念入りな描写が入ります。


 


敵キャラであればその悪者っぷりや危険性について語ることで、そいつを殺すことに大義名分を持たせます。勧善懲悪の話では大概、主人公が敵を殺すことに全く疑問を抱かない程に、敵の極悪非道っぷりが説明されていて、主人公の殺人行為を正当化する見えないマーダーライセンスが発行されています。『必殺仕事人』なんかはその典型例です。


 


味方キャラが死ぬときであれば、そのキャラの人生が意味のあるものだったか、全力で戦い悔いのない人生を送ってきたか等等、味方が死ぬのは辛いけど、悪くない死に方だったなぁと思わせる描写が入ることが多いです。


 


 


雷句誠『どうぶつの国』で、主人公の仲間・キリトビが命を懸けて敵に特攻をかけるシーン



私はキリトビというキャラクターが大好きだったんですが、私はこのコマを観た時点でキリトビが死んでしまうであろうことを、受け入れ始めています。こんなかっこいいセリフを残して、果敢に戦い命を落としてしまう事は、悲しいけれどしょうがないことなんだと思うことができるんですよね。キリトビが死んだことを悲しむというより、彼の偉業を讃えようという気持ちになっているんです。



さらにこの前後にはキリトビの一族がどんな苦しい生存競争に立たされてきたか、この戦いで勝利することがキリトビの一族にとってどれほどの福音となるか、彼が命を懸けることがいかに大きな意味を持つかが、回想を交えてしっかりと描かれています。


 


キリトビの例のように、死に対して抱く拒否感を薄める機構が、バトル漫画にはきっちりと整えられているので、逆に言えば人が理由もなく不条理に死んでしまうということがほとんど起こらない。もし誰かが死ぬにしてもある程度納得のいく形で、彼らの死を受け入れられるようにできています。少年漫画において『HUNTER x HUNTER』のポンズやポックルのようなケースはレアだと思うんです。富樫先生はその辺も異彩を放っているように思います。


 


 


『ゴルゴ13』なんかではこのような「善人の死に、納得のいく理由をつける」という漫画的手法を逆手にとった、ショッキングな話がよく出てきますよね。


 


いつどこで読んだか思い出せない、タイトルや書籍情報は忘れちゃったんですが


 


マフィアから重要な秘密を持ち出して逃亡した男が、地元の婚約者のもとにどうにかして帰ろうとあらゆる手をつくして、ついにはマフィアにばれないように婚約者と会う約束を取り付けることに成功するんだけど、待ち合わせ場所にはマフィアに雇われたデューク東郷が待ち伏せしていて、あと数メートルで婚約者に遭えるというところで狙撃されて死ぬという、そんな救いも糞もない話がありました。


マフィアの追手、数々の視線を潜り抜けて婚約者に会いに行くという感動的な展開に、男性が死んでしまうという結末を読者に納得させる要素はありません。しかし私はこの話を見て、男性の死に多少の不条理を感じながらも、まぁしょうがないよな、とあっさり引き下がることができたのです。


 


デューク東郷に命を狙われたんだもの、死ぬしかないのです。


『ゴルゴ13』のすごいところは、登場するすべての人間の死を「デューク東郷に狙われた」ということだけで説明できてしまうところだと思います。どんな幸せな場面でも、子供たちが楽しく遊んでるほほえましい映像の中でも、そこにデューク東郷が表れたなら、だれか死ぬのです。そのことに、私は疑問を抱かずすんなり受け入れてしまう、すごい存在ですよねデューク東郷って。


 


 





 


最近、死ぬ正当性が整えられていない、悪者でもなわけでも、自らの意志で戦いに命を懸けたわけでもない普通の人間が無残に殺される、というような漫画も増えてきたなぁと感じます。


 


『トモダチゲーム』とか『神様の言うとおり』とか『王様ゲーム』とか


 


ごく普通に生活していた人間が不条理に集められて不条理な殺人ゲームに参加させられ、ゲームに敗けたというだけで本当に死んでしまう。それらの作品に共通することとして、非現実的な設定でありながら、死の苦しみや恐怖の部分だけ緻密に書き込まれ、普通の人間がこんなにも凄惨な目に遭わされる「不条理」そのものをウリにしているように感じます。人が死ぬ、そこに理由を一切つけない。


 


私はそれがとても苦手です。死の苦しみや恐怖を描くだけ書いて、そこに救いが全くない物語、それを読んで私は何を思えばいいのか。漫画の中で不幸な目に遭わされて無残に殺された人間は、本当に不幸な人生を送っただけで最悪の苦しみを最後に、死んでしまっています。その人命を雑に使い捨ててる感じが、どうも受け入れられないのです。


 


青年漫画の『GANTZ』もそれが理由でなかなか好きになれないでいます。


漫画のキャラクターはその世界での人生を一回しか生きられないのだから、あまり不幸な死に方をしてほしくないし、死ぬにも何かしらの理由、とにかく読んでる私が嫌な気持ちにならないようにしてほしいなぁと思うんです。『GANTZ』の球に、デューク東郷ほどの死への説得力はないように思うのです。


 


 





 


不条理に人が死ぬと言えば、ホラーもので死ぬ人はみんな理由もなく殺されていて、ホラー漫画で死ぬ人はその世界で一度だけの人生を苦痛のうちに死んでしまっているのだけれど、この場合はまったく心が痛まないんですよね。ホラー漫画で人が死んでも、なぜか悲しくない、時には少し笑ってしまう、この差はなんなのか。


 


『死人の声を聞くがよい』ひよどり祥子


 


ホラー漫画を読んでる時だけ、私の中の死生観がちょっとひっくり返る感じがします。
『死人の声を聞くがよい』の大浦一家は「おかえりさま」の影響を受けて精神的には完全に死んでしまっているんですが、何か人間とは違うランクの存在に進化した感じがします。悪
霊・モンスターの大量発生する世界において、善良な人が無残な殺され方をすると、少しはウッとなりますが、この世界なら死んでも悪霊とかキメラとかにクラスチェンジして存在を保つことはできるし、なんというか死が人生の終着点ではない感じがするんですよね。死んだ後にも、かなりロスタイムがあるように思うんです。それゆえに、ホラーの不条理な死を受け入れることができるのだと、思っています。


 


『ギョ』伊藤潤二


潔癖症のヒロイン・生前


 


死後


 


死んだあとの方が活気がある・元気になってる感じもします。


 


むしろ別次元の生物に生まれ変わった感じ、生前とは比べ物にならないパワーを備えた存在になっています。 ものすごく不幸な死に方をしているんですが、それがさほどかわいそうに思えない。化け物に進化したことのほうが、彼女の不条理な死のインパクトをはるかに上回っていて、この化け物が今後どんな行動を起こすのか、そっちが気になってしょうがない。


 





 


漫画のなかで人が不条理に死ぬのは嫌だと描いた私ですが、銃をバンバン撃ったりハンマーでド頭ぶん殴ったり、巨大ボルトクリッパーで敵をバヅンとやっちゃうようなバイオレンスな漫画を読むのも好きで、それが矛盾なのかどうか、自分では判断がつきません。


 


 


ヤングガンガンで連載中のよしむらかな先生の『ムルシエラゴ』が好きなんですが、この漫画は世にはびこる悪人、歪んだ欲望を満たすために人を殺すことを全くためらわないクズ人間を、それを上回るクズ最悪女がぶっ殺していく漫画です。


 


この女主人公コウモリが酷い人間で、人を殺すときも、人に殺されそうになった時も全く感情に変化が表れない、怒りも悲しみもなくちょっとした遊び感覚で悪人を殺す。作中悪人の手によって一般人が不条理に刺殺される痛ましい場面もあるんだけど、コウモリによってすぐに犯人が殺されてしまうし、コウモリの方も一般人の死には目もくれずに無感動なまま悪人を殺すので、なんだか一般人の死がさほど恐ろしいことでもないように思えてくるのです。


 


不条理な死がそこにあるにもかかわらず、なんかあんまり気にせず読み進めてしまっているのは、飄々と人を殺すコウモリな視点で読んでいるから、というかエグイ物語をコウモリ視点で涼しげに眺められるように、漫画家さんに誘導されている感があります。誰が死んでも、あぁ死んだなぁと思うだけで、次のコマに目を移した時には、この後どう話が進むんだろうと先のことだけ気になってたりします。


 


 死体の山を前にこの軽さはないだろうとも思うんだけど、登場人物が全員こんな感じで死に対して何の感傷も抱いていなくて、なんだか読んでるこっちもマヒしてくるのです。





 


大分話がとっ散らかってしまいました。


 


特にまとまった結論も用意できないのですが、とりあえず私は漫画の中でぐらい死をえげつないものとして描いてほしくないなと、せっかく生み出したキャラクターなのだから、ホラーを除いて、可能な限り幸福な人生を送らせてあげてほしいなぁと思います。



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