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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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漫画の中でも人は死ぬ


 


 


私は、実写映画の中で人が死んでもあまり悲しめないんですが、それはきっとその役を演じた俳優が現実世界ではしっかり生きていることを知っているからで、実写フィクションにおける人間の死というものを、作中の事実として素直に受け取ることができないせいなんです。


 


一方、漫画やアニメなど非現実の世界に生きるキャラクター達が死んでしまうと、本当に彼らが死んでしまった、という喪失感に襲われます。非現実世界での人生が本当に終わってしまって、作者さんに生き返らせてもらえない限り、二度と彼らの生きた姿を見ることができないことを、ひしひしと感じてしまいます。しかしこれは、実写映画やドラマにおける死は嘘だから泣けない、アニメや漫画は泣ける、とかそういう類いの話ではありません。登場人物の死をその人の人生の終わりとして、私が実感しやすいかどうか、ということをいっているだけです。


 


 


非現実世界での死は、その世界の中で真実、覆すことのできない本当の死だと感じるんです。


 


 


漫画には人の死ぬシーンがたくさん出てきますが、その描かれ方によってそれがとても残酷なものであったり、真っ当な正義行使の結果であったり、面白おかしく笑えるものであったり、あるいはサラッと流されていたりと、人が一人死んだということに対する表現方法によってそこから得る感傷は違ってきます。バイオレンスな漫画を読んで人がいっぱい死んでいるシーンに触れても全く辛いと思わないこともあるし、たった一人の人間が死んだというだけですさまじい精神ダメージを感じたりします。


 


 


漫画の世界で人が死ぬというのは、本当にその世界で人が死んでしまっているという事なのに、とても辛く感じたり何とも思わなかったり、感傷の度合いが上下する。それはなんでなんだろうと、以下、漫画の中で人が死ぬ、いろいろなケースについて思ったことを脈絡なく書きます。


 


 





 


 


死というのは基本的に人に負の印象、時には嫌悪感を抱かせるはずで、バトル漫画など敵・味方問わず大量に人が死ぬ物語においては、その暗い感じをできるだけ軽減させ別の感情にすり替えるために、一人のキャラが死ぬという展開に正当性、納得のいく理由を持たせる念入りな描写が入ります。


 


敵キャラであればその悪者っぷりや危険性について語ることで、そいつを殺すことに大義名分を持たせます。勧善懲悪の話では大概、主人公が敵を殺すことに全く疑問を抱かない程に、敵の極悪非道っぷりが説明されていて、主人公の殺人行為を正当化する見えないマーダーライセンスが発行されています。『必殺仕事人』なんかはその典型例です。


 


味方キャラが死ぬときであれば、そのキャラの人生が意味のあるものだったか、全力で戦い悔いのない人生を送ってきたか等等、味方が死ぬのは辛いけど、悪くない死に方だったなぁと思わせる描写が入ることが多いです。


 


 


雷句誠『どうぶつの国』で、主人公の仲間・キリトビが命を懸けて敵に特攻をかけるシーン



私はキリトビというキャラクターが大好きだったんですが、私はこのコマを観た時点でキリトビが死んでしまうであろうことを、受け入れ始めています。こんなかっこいいセリフを残して、果敢に戦い命を落としてしまう事は、悲しいけれどしょうがないことなんだと思うことができるんですよね。キリトビが死んだことを悲しむというより、彼の偉業を讃えようという気持ちになっているんです。



さらにこの前後にはキリトビの一族がどんな苦しい生存競争に立たされてきたか、この戦いで勝利することがキリトビの一族にとってどれほどの福音となるか、彼が命を懸けることがいかに大きな意味を持つかが、回想を交えてしっかりと描かれています。


 


キリトビの例のように、死に対して抱く拒否感を薄める機構が、バトル漫画にはきっちりと整えられているので、逆に言えば人が理由もなく不条理に死んでしまうということがほとんど起こらない。もし誰かが死ぬにしてもある程度納得のいく形で、彼らの死を受け入れられるようにできています。少年漫画において『HUNTER x HUNTER』のポンズやポックルのようなケースはレアだと思うんです。富樫先生はその辺も異彩を放っているように思います。


 


 


『ゴルゴ13』なんかではこのような「善人の死に、納得のいく理由をつける」という漫画的手法を逆手にとった、ショッキングな話がよく出てきますよね。


 


いつどこで読んだか思い出せない、タイトルや書籍情報は忘れちゃったんですが


 


マフィアから重要な秘密を持ち出して逃亡した男が、地元の婚約者のもとにどうにかして帰ろうとあらゆる手をつくして、ついにはマフィアにばれないように婚約者と会う約束を取り付けることに成功するんだけど、待ち合わせ場所にはマフィアに雇われたデューク東郷が待ち伏せしていて、あと数メートルで婚約者に遭えるというところで狙撃されて死ぬという、そんな救いも糞もない話がありました。


マフィアの追手、数々の視線を潜り抜けて婚約者に会いに行くという感動的な展開に、男性が死んでしまうという結末を読者に納得させる要素はありません。しかし私はこの話を見て、男性の死に多少の不条理を感じながらも、まぁしょうがないよな、とあっさり引き下がることができたのです。


 


デューク東郷に命を狙われたんだもの、死ぬしかないのです。


『ゴルゴ13』のすごいところは、登場するすべての人間の死を「デューク東郷に狙われた」ということだけで説明できてしまうところだと思います。どんな幸せな場面でも、子供たちが楽しく遊んでるほほえましい映像の中でも、そこにデューク東郷が表れたなら、だれか死ぬのです。そのことに、私は疑問を抱かずすんなり受け入れてしまう、すごい存在ですよねデューク東郷って。


 


 





 


最近、死ぬ正当性が整えられていない、悪者でもなわけでも、自らの意志で戦いに命を懸けたわけでもない普通の人間が無残に殺される、というような漫画も増えてきたなぁと感じます。


 


『トモダチゲーム』とか『神様の言うとおり』とか『王様ゲーム』とか


 


ごく普通に生活していた人間が不条理に集められて不条理な殺人ゲームに参加させられ、ゲームに敗けたというだけで本当に死んでしまう。それらの作品に共通することとして、非現実的な設定でありながら、死の苦しみや恐怖の部分だけ緻密に書き込まれ、普通の人間がこんなにも凄惨な目に遭わされる「不条理」そのものをウリにしているように感じます。人が死ぬ、そこに理由を一切つけない。


 


私はそれがとても苦手です。死の苦しみや恐怖を描くだけ書いて、そこに救いが全くない物語、それを読んで私は何を思えばいいのか。漫画の中で不幸な目に遭わされて無残に殺された人間は、本当に不幸な人生を送っただけで最悪の苦しみを最後に、死んでしまっています。その人命を雑に使い捨ててる感じが、どうも受け入れられないのです。


 


青年漫画の『GANTZ』もそれが理由でなかなか好きになれないでいます。


漫画のキャラクターはその世界での人生を一回しか生きられないのだから、あまり不幸な死に方をしてほしくないし、死ぬにも何かしらの理由、とにかく読んでる私が嫌な気持ちにならないようにしてほしいなぁと思うんです。『GANTZ』の球に、デューク東郷ほどの死への説得力はないように思うのです。


 


 





 


不条理に人が死ぬと言えば、ホラーもので死ぬ人はみんな理由もなく殺されていて、ホラー漫画で死ぬ人はその世界で一度だけの人生を苦痛のうちに死んでしまっているのだけれど、この場合はまったく心が痛まないんですよね。ホラー漫画で人が死んでも、なぜか悲しくない、時には少し笑ってしまう、この差はなんなのか。


 


『死人の声を聞くがよい』ひよどり祥子


 


ホラー漫画を読んでる時だけ、私の中の死生観がちょっとひっくり返る感じがします。
『死人の声を聞くがよい』の大浦一家は「おかえりさま」の影響を受けて精神的には完全に死んでしまっているんですが、何か人間とは違うランクの存在に進化した感じがします。悪
霊・モンスターの大量発生する世界において、善良な人が無残な殺され方をすると、少しはウッとなりますが、この世界なら死んでも悪霊とかキメラとかにクラスチェンジして存在を保つことはできるし、なんというか死が人生の終着点ではない感じがするんですよね。死んだ後にも、かなりロスタイムがあるように思うんです。それゆえに、ホラーの不条理な死を受け入れることができるのだと、思っています。


 


『ギョ』伊藤潤二


潔癖症のヒロイン・生前


 


死後


 


死んだあとの方が活気がある・元気になってる感じもします。


 


むしろ別次元の生物に生まれ変わった感じ、生前とは比べ物にならないパワーを備えた存在になっています。 ものすごく不幸な死に方をしているんですが、それがさほどかわいそうに思えない。化け物に進化したことのほうが、彼女の不条理な死のインパクトをはるかに上回っていて、この化け物が今後どんな行動を起こすのか、そっちが気になってしょうがない。


 





 


漫画のなかで人が不条理に死ぬのは嫌だと描いた私ですが、銃をバンバン撃ったりハンマーでド頭ぶん殴ったり、巨大ボルトクリッパーで敵をバヅンとやっちゃうようなバイオレンスな漫画を読むのも好きで、それが矛盾なのかどうか、自分では判断がつきません。


 


 


ヤングガンガンで連載中のよしむらかな先生の『ムルシエラゴ』が好きなんですが、この漫画は世にはびこる悪人、歪んだ欲望を満たすために人を殺すことを全くためらわないクズ人間を、それを上回るクズ最悪女がぶっ殺していく漫画です。


 


この女主人公コウモリが酷い人間で、人を殺すときも、人に殺されそうになった時も全く感情に変化が表れない、怒りも悲しみもなくちょっとした遊び感覚で悪人を殺す。作中悪人の手によって一般人が不条理に刺殺される痛ましい場面もあるんだけど、コウモリによってすぐに犯人が殺されてしまうし、コウモリの方も一般人の死には目もくれずに無感動なまま悪人を殺すので、なんだか一般人の死がさほど恐ろしいことでもないように思えてくるのです。


 


不条理な死がそこにあるにもかかわらず、なんかあんまり気にせず読み進めてしまっているのは、飄々と人を殺すコウモリな視点で読んでいるから、というかエグイ物語をコウモリ視点で涼しげに眺められるように、漫画家さんに誘導されている感があります。誰が死んでも、あぁ死んだなぁと思うだけで、次のコマに目を移した時には、この後どう話が進むんだろうと先のことだけ気になってたりします。


 


 死体の山を前にこの軽さはないだろうとも思うんだけど、登場人物が全員こんな感じで死に対して何の感傷も抱いていなくて、なんだか読んでるこっちもマヒしてくるのです。





 


大分話がとっ散らかってしまいました。


 


特にまとまった結論も用意できないのですが、とりあえず私は漫画の中でぐらい死をえげつないものとして描いてほしくないなと、せっかく生み出したキャラクターなのだから、ホラーを除いて、可能な限り幸福な人生を送らせてあげてほしいなぁと思います。



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面白いけど辛いの話:『ちーちゃんはちょっと足りない』と『ぼくは麻里のなか』



以前ツイッラーを見てたら、とあるゲーム感想ブログのリンク(
http://gamersgeographic.com/が流れてきまして、そこにはこんな感じの文章が書いてありました。


 


面白いの逆はつまらないであり、楽しいの逆はつらい。ですから「つまらなくて楽しい」や「面白いけれどつらい」の事例は往々にして発生します。』と


 


ゲームもやらないのにうっかりこのブログをブックマークしてしまいました。


 


時に、私はここでいう「つまらなくて楽しい」とか「面白いけど辛い」という感想を、どんなものに、というかどんな漫画に感じているのかなぁと考えてみたんですが


 


「面白いけど辛い」の方に関して、ちょっと上記ブログで触れられている意味合いとは違ってきてしまうかもしれませんが、拡大解釈すると阿部共実・押見修造先生の漫画がそれにあたるなぁと思ったので、なぜ面白いと思うのか、なぜ辛いのかを掘り下げて書いてみたいと思ます。めんどくさいので以下敬称略でいきます。


 






 


阿部共実と押見修造、この両名は今とても人気にある漫画家さんなわけですが、ともに同じような評価を受けているように感じます。例えば単行本の帯には「心をえぐられるボーイミーツガール」「上手くいかない生き辛い私たちの青春」といったような紹介文があり、爽やかな精神を持って青春を謳歌することに失敗した、生き方を少しばかり誤った人間の苦しみを描く漫画家さんです。


 


しかしこの両名は似ているようで心のえぐり方が微妙に違っています。


2者の作品を読んで抉られる私の傷の具合が違うというか、単に「心をえぐる」というには説明しきれない、いやらしいえげつなさがあるようにも思うのです。両名の最近の作品を取り上げてそのエグサの違いについて、私なりの見解を書いてみたいと思います。


 


 


①阿部共実漫画:『ちーちゃんはちょっと足りない』


阿部共実漫画には、生き辛さを感じる主人公が何かしら人間関係の岐路に立たされて失敗、その後の主人公の独モノローグによって畳み掛けられる自己肯定と罪悪感がせめぎあう、という場面がよくあります。


 


阿部共実漫画のキャラクターは何か失敗をした時にとても自己肯定的な言い訳を言って自分を守ろうとしたり、他者を貶めるような発言をして相対的に自分の至らなさを目立たなくするような、しんどい生き方をしていてとても痛ましい。


 






ちゃんと話したこともないのにヤンキーっぽい人を馬鹿にしてみたり、こういうことをしてしまう精神は、私にもあります。


 


自分にそのきらいがあるだけに痛いところを突かれたような、登場人物に妙な共感を覚えてしまいそうになるのですが、一つ引っかかることがあってどうも素直に共感することができないのです。


 


 


それは、阿部共実漫画の主人公が基本的に女子高生であるという事、また阿部共実先生の絵がとてもかわいらしいタッチであり当然ながら主人公も、絵的には二次元的美少女であるという事が、私に共感とは少し違う感情を抱かせるのです。


 


主人公が作品世界の中で自分の容姿をどう思ってるかなど関係なく、阿部共実先生の絵で見るそのキャラクターは読者の私の目には美少女として映り、そんな美少女が人間関係で失敗して自分と同じような汚い悩みを抱いているという事を、私のようなブッサイク男子はどこか嬉しく感じてしまうのです。クズ的自己肯定をしてしまうのは私がブッサイクだからではないとか、美少女だって私と同じような考え方を共有しているのだとか


 


阿部共実漫画は、私の中にそんな逃げ道を作る格好の手段となってしまいそうで恐ろしいのです。私は主人公の考え方に心の奥では共感していながら、そこに救いを求めてしまわないよう、ストッパーをかけながら読んでいます。


 


彼女たちの感じている悩みは彼女たちにとってとても深刻なものだし、それは似たような生き方をしている私のも十分理解できるものなのですが、やはり彼女たちは二次元的美少女なので、私とはまた違った解決法を見出すんじゃないかと思うんです。


 


私が男であり何か悩みを打ち明けるような友達も少なく、今感じている生き辛さを解消することが難しいかを、逆に認識させられるというか、変な気持ちになります。


 


それは好きという感情とも、嫌いという感情とも違っていて、クズな私が二次元的美少女的存在に救いを求めようとしていることに気づかされる、自分のダメかげんを再確認するために読むような、そんな微妙な感想を阿部共実漫画に抱いています。


 


 




 


②押見修造漫画『ぼくは麻里のなか』


押見修造漫画もまた生き辛さを感じている人間に焦点を当てているのですが、阿部共実とは違ってクズ男を主人公においています。
一層、二次元的美少女に救いを求めさせる傾向が強く、生き辛いクズ男の心をより強く揺さぶってきます。


 


『ぼくは麻里のなか』は引きこもりニート男の精神が、いつもコンビニで見ていた可愛い女子高生の肉体に突然入ってしまうというドッキリハプニングから物語が始まります。押見先生曰く女性への変身願望、覗き見願望的なものを描いたそうで、主人公も最初はハプニングに戸惑いながら、突如始まった美少女の肉体での生活に喜びを感じ始めます。周囲からの目が侮蔑から羨望・憧憬に変わり、以前からは考えようもないVIP的待遇を受ける。人生がうまくいかないクズ男の「美少女に生まれていたら人生楽だっただろうに」というくだらない妄想をそのまんまに描いてきます。


 


ただ、押見修造漫画のえげつないところは、クズ男子の妄想を上げて落とすところにあります。それも隙を生じぬ二段構えで


 


引きこもりニートとして生きてきた主人公が突然美少女に変身したところで心に染みついた卑屈な精神はそのままなので、きらびやかで爽やかな美少女女子高生の生活に馴染めるはずがないのです。話が進むごとに最初のドッキリハプニング的な印象はどんどん不穏な空気を孕むようになり、押見修造の仕掛けたトラップが顕現してくるのです。


 


女子高生同士の女子らしい話題についていけず、クラスの男子からの性的な視線・アプローチの矢面にさらされる恐怖を味わい、さらには生理という未知の怪物の猛威にさらされて主人公の心は初期の楽しい気持ちから真逆にたたき折られてしまいます。


 


血気盛んな男子高校生に迫られる恐怖


「美少女に生まれていたら人生楽だったかも」とか、お前らの願望が叶ったと思ったか、美少女だって大変なんだよ残念でした!!みたいな恐ろしい落とし穴、押見修造のしたり顔が目に映るようです。
ちょっとでも女子高生に変身できた主人公を羨ましく思った自分が情けなくなってくる、押見先生本当にすいませんでしたみたいな、妄想に逃げようとしていたところを現行犯逮捕されたようなそんな罪悪感に包まれます。


 


しかし押見修造先生による責め苦はこれだけでは終わらず、二段構えで私を責め立てます。


 


序盤こそ主人公は女子高生としての生活様式に馴染めずに苦しむのですが、次第に自分が美少女のフレームに入っているという事、そのフレームが周囲にすさまじい影響力を持っていることを自覚し始めるというか、その肉体が自分のものであるという事に慣れ始めるのです。引きこもりニートだったはずの主人公の精神に、美少女としての自信のようなものが宿り始めるんですね。


 

ちょっと前まで女の子と目も合わせられなかった男が、女子高生・麻里に思いを寄せていた女子生徒・依に対してこんなセリフを吐くようになる。



主人公
in女子高生①はもともと自分の魂が入っていたはずの引きこもりニート主人公②が肉体と精神を伴って依然と同じように引きこもり生活をしているのを知って、接触を図ります。女子高生の姿で


 


ひきこもりニート主人公②は突然の女子高生①の訪問に戸惑う。①は、①がなぜか女子高生の体に入ってしまったこと、①と②が同じ魂を持つ存在であることを説明し、その後なぜか②の部屋で一緒にテレビゲームをします。


 


左が①、右が②。笑顔のぎこちなさに作者の悪意を感じます。
②は①が自分であるという事を一応は理解しながらも、女子高生が自分の部屋にいるという状況に興奮焦りを隠せず、一方①はそんな②の心情を察しながらもあくまで女子高生然として振舞う。


 


このシーンは女子高生の肉体に入るという突然の幸運によって引きこもりニート的生き辛さを克服してしまった①が、元の姿である②に対して圧倒的な上位性を示し、②が①に比べていかに醜い存在であったかをしこたま見せつけられる場面です。


 


そもそも①は漫画的幸運によって成り立った存在であり、自身の努力で何かを克服した存在ではありません。それが多少の環境の違いに戸惑った末に、女子高生の肉体を手にしたというだけでそれほどの優越感を得てるというのは、何とも苦しい話です。彼の本質は何も変わっていないはずなのです。そして何より②の主人公はこんなにもクズい。


 


たとえ自分と同じ精神が入っているとはいえ、自分の部屋に突然美少女の女子高生が遊びにやってきたりしたらそれは嬉しいでしょう。しかし読者の私はこの状況を全く喜べない。この②の女性慣れしていない醜い姿は、①が女子高生の肉体に入った時に羨ましいと感じてしまった私自身の姿なのではないかとすら、思えてしまいます。


①は絶対に②の醜さに気づいているはずなのに、それを過去のもののように余裕をもって流している。漫画的幸運にさらされたことが①の精神を自信にあふれた美少女のそれに近づけてしまっている。


 


しかし、やっぱり現実世界に漫画的幸運なんてありえない。私の精神が女子高生に入り込んで、それがたまたま美少女で自身に溢れた恵まれた社会環境で生きていけるみたいな、そんな状況は起こりえないのです。押見修造先生は、漫画の中で起きるような幸運は現実では絶対に起こらないということを強く意識したうえで描いてるのではないかと思います。甘ったれた妄想に逃げ、都合よく自分の悩みが救われていく世界を願うクズ男の自尊心を、粉々に砕いてきます。


 


読んだ後、妄想に逃げようとして本当にすみませんでしたと、漫画家さんに謝罪したくなる、そんな変な読後感に包まれるのです。


 


 






 


最近そういう生き辛い人の心をえぐるみたいな漫画が増えてきましたが、そういう作品にはどうしようもないぐらい救いのないブ男が、都合の良い幸運など一切なく、自分の意識と努力によって精神を改革し社会復帰していくみたいな話は少なく


 


美少女との出会いとか、特殊能力の発現とか、そんな突発的な逃げ道が設けられたものが多い。私はそういうモノを読むと、自分が現実逃避に必死になっていることを自覚させられてしまうし、何の解決にもなっていないことがわかっているので辛くなってしまいます。


 


でも、私が阿部共実・押見修造両名の漫画が嫌いかと言われればそんなことはなく、また好きとも言えず、自分の現実逃避的クズっぷりを再確認させられる作品を描いてくれるという事、そしてそこに描かれている生き辛さの悩みは理解できてしまう事、「面白いけど辛い」って感想が一番しっくりくるなぁと感じています。


 


 


美少女による逃げ道ありきの漫画もいいけど、素直な気持ちで読めるクズ男の漫画、『最強伝説黒沢』のような漫画がもっと増えてくれたらいいなぁとも思います。


 


 


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Within Temptation:蛇足


得体のしれない存在を孕んだ母親がその存在に恐怖しながらも深い愛情を注いで、周囲はその得体のしれない存在を恐れ母親を狂人扱いする、的な物語に今まで何度か触れたことがある気がして、記憶をたどってみたのですが


 


ホラー映画の『悪魔の赤ちゃん』って割とそんな話だったなぁって


 


とある平凡な夫婦、奥さんは出産間近で物語冒頭でついに臨月となって分娩室へ運び込まれるんだけど、そこで生まれてきた赤ちゃんは強靭な身体能力・鋭い爪と牙を持った醜い化け物だった、てな話です。


 


赤ちゃんは生まれた瞬間に分娩室にいた医者と看護婦を全員惨殺して逃走、街中を逃げまわり凶行を重ね、緊急出動した警察の警備網をも突破して、ついには夫婦の家にたどり着きます。


 


夫は赤ちゃんを恐れ猟銃でぶっ殺そうとしたりするんですけど失敗しさらに恐怖のどん底へ


 


一方妻は曲がりなりにも自分の子供が生まれた瞬間に寒空に放り出されて警察に追い回され山狩り状態になっていることに心を痛めて、赤ちゃんを守ろうとします。この時のおくさん完全に目がイッててとてもクレイジーで、夫もそんな妻を見て恐怖で頭がおかしくなったんだと妻を赤ちゃんから遠ざけます。


 


そして物語のクライマックスでは警察の大追跡の結果下水道に追い詰められた赤ちゃんと夫の対峙。今までにないか細い鳴き声を上げる赤ちゃんを見て、そこで初めて夫が気づくんですが、赤ちゃんは夫婦に危害を加えようと近づいたのではなく抱き上げてもらおうとしてたんですね。化け物とはいえ生まれた瞬間に両親から引き離され拒絶され、あげく街中から追いかけ回されて、考えてみれば不憫な生き物であって、化け物とはいえ夫婦と血のつながった実の子供であることを、夫が初めて気づく。


 


『悪魔の赤ちゃん』はそんな感じのB級映画です。ストーリーの面白さとかはどうでもよくて、子宮を通して胎児とつながっていた母親に、その得体の知れなさを通り越した母性っぽい何かを発揮させるって点では『WOMBS』と近いことをやっているなぁなんて思いましたよ。



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Within Temptation:白井弓子『WOMBS』


子宮ってすごいですよね。
あれって人体の臓器の中で脳と心臓に次いで大事に扱われてる感じがするんですよ


脳・心臓・子宮ってやつらは臓器としての機能に加えて、スピリチュアルな特殊能力・価値を付与されることも多い気がしていて、私もこれらの臓器に関して妙なイメージ、脳みそ生で食ったらその人の記憶吸い取れるんじゃね?みたいな、そんなあやふやメルヘンチックな肉肉しいイメージを抱いています。


 


私は男性なので、子宮を持っていません。


 


それは生物として当然なんですが、同じ種の動物であるにもかかわらず女性にはスピリチュアルな臓器が、男性より一つ多くついているという事が羨ましいやら気味悪く思うやらで


 


そんなことを考えていると、私は「女」とは全く違う「男」生き物なのだと、改めて認識させられます。肉体構造もさることながら、社会的役割やら人間関係のあり方やら、あらゆる社会的要素において男女の差は広く深淵です。どれだけ頑張っても、野郎の私が女性の心情と完全に同じものを想像したり、あるいは女性の目線で何かに共感したりすることはできません。


 


それでも私は少女漫画を読んでいるし、また女性がメインキャラクターを務める漫画もいろいろ読んでいます。それらの作品を読むとき、自分が女性読者と同様に、深く正確に登場人物の心情を感じ取れているかと言われればまったく自信がありません。もしかしたら男性の目線で都合よく誤解できる作品だけを私が選択して読んでしまっているのかもしれない。無意識のうちに、男受けの良いポップな女性キャラが登場する作品を選別して読んでしまっているのかもしれない。そんないやな可能性を、私は否定することができません。世間でたまに目にする「男でも読める少女漫画」というカテゴライズにも男性目線の都合のよさと恐怖を感じてしまいます。女性向け・女性主体の作品について、なるべく男性的偏見が入らないような形で読みたいというのが、私の理想です。


 


 


 


 


 


 


私は白井弓子先生の漫画が好きなんですが、この人の描く作品は女性が主人公になるものが多くて、特に女性がその性別に課せられた社会的役割に対して向き合って、あるいは反発して強く生きていくかというテーマを、異世界SFストーリーを通して間接的に表す、というものが多いです。『白井弓子初期短編集』に収録されている作品は母親としての女性の生命力の強さとか、母性的なものとは少し違った人間臭い愛情とかを描いていて、興味深いです。


 


そんな白井先生の作品の中でも、月刊IKKIで連載していた『WOMBS』という作品は、白井弓子先生自身が妊娠&出産を経験してから書き始めた作品という事で、修羅場を潜り抜けた女性ならではの凄みを感じます。


 


そしてその設定・物語は、私に男性と女性の性差をまざまざと見せつけてきます。


女性的経験の当事者となることができない、部外者としての疎外感を味わわされる、私にとって『WOMBS』はそんな感じの漫画です。


 


 


WOMBS』とはどんな話かというと


かつてファーストと呼ばれる移民は荒れ果てた惑星・碧王星に流れ着き、自分たちの住みよい星へと開墾し現地民として君臨していた。そこにはるか昔に碧王星を食いつぶし別の星へと移住していた人類、通称セカンドが突如現れ、その起源性・主権を主張、ファーストとセカンドの戦争が始まる。セカンドの科学力・軍事技術・物量はファーストをはるかに凌駕しているのだが、彼らはファーストの持つ「ある特殊な軍事技術」を前に苦戦を強いられ、戦争は消耗戦へと泥沼化する。


 


とこんな話なんですが


この「特殊な軍事技術」、要はテレポート能力なんですが、その能力を使うための条件がなんだかあれなんですね


 


その能力とは「妊娠している時にのみテレポート能力を発揮する謎の生物・ニーバスの胚を女性戦闘員の子宮で育成し、ニーバスの能力を利用してテレポートする」という能力なんですね。


 


健康定な肉体を持つ女性軍人の子宮にニーバスの体組織を植え付け育てさせる。組織が成長するにつれてテレポート能力は暗黒のn次元空間の中に正確な座法軸を設定するに至り,


1小隊を丸々戦地に放り込み退却させるアシとしての力を発揮する。妊婦だけの戦闘部隊「転送隊」の物語なんです。


 


この物語の核となっている点、それは子宮の中のニーバス組織と母体となる女性隊員との駆け引きです。


 


転送にはニーバス組織の協力が不可欠です。隊員は自身の精神の中にニーバス組織を誘い入れ、転送の座標軸を設定する「ナビ」としてその力を利用します。一方ニーバス組織は


母体の最も大切な人物のイメージをトレースし、その姿で母体をニーバス組織の精神テリトリーにまで引きずり込んで、自分を守る母親になってもらおうと仕掛けてきます。戦争の極限状況において、軍隊という閉鎖的な環境において、そのイメージは彼女たちの郷愁を強く引き立てます。また腹が膨らんでいることと、イメージ人格が母体とのコミュニケーションを仕掛けてくることから、母体は腹の中のニーバス細胞が自分にとって大切なものであるように錯覚し始めるという。


 




そこに表れるのは母性か、人間性か、軍人としての合理性か、みたいな


 


 


そんな感じで『WOMBS』には自身の子宮の中に異生物を取り入れてしまったことで自分が人間なのかニーバスなのかの境目が曖昧になったりしながらも、ニーバスの能力を活用していく女性隊員の成長・葛藤をぬらぬらと描いています。キーワードは何と言っても子宮、タイトルの『WOMBS』も即ち彼女たち転送部隊への蔑称・子宮隊からとられています。


 


 


この漫画を読むうえで、妊娠出産経験のある方やその予定がある女性読者の方が、男性ドワーフの私よりもより理解しやすく、登場人物の心情に共感・同情しやすい立場にあるのではないかと思います。私には子宮がないのだから、胎から異生物に浸食されてしまう恐怖も、異生物と分かっていながらわが子として愛着を持ち錯覚してしまう気持ちも、十分に理解できているとは思えない。子宮があっても理解できんわい!って言われるかもしれませんが、理解の可能性がある分だけ、私は子宮持ちの人が羨ましい。


  


自分の体の中で新たな生命が育ち、自分の腹の子供を守るという本能的な思考、そんな体験も妊婦ならではのもので、女性にとってはいつか自分も体感するかもしれない、あるいは感じたことのある現実の延長として想像できるものであると思います。それは、野郎の私には輪廻転生でもしない限り体験できない思考であって、想像しようにも自分の肉体・精神とかすりもしない領域にあります。


 


しかし私はこの『WOMBS』という漫画が大好きで、何とか登場人物たちと近い心情を想像して彼女らと近い気持ちでその物語の世界に身を投じたいという思いが強くあります。なにせ妊婦だけで構成された部隊、環境が閉鎖的で身内ノリ的な純粋培養された妊婦ネタが、生活様式の各所に取り入れられていてそれがなんか楽しそうで憧れるんです。


 


 


主人公たちの所属する軍事施設の食堂は二つのエリアに分かれていて、一つは普通の兵隊用。そしてもう一つのエリアの名前は「Within Only(入ってる人専用)」


 


とか、いいネーミングですよねぇWithin Only


 


ハイタッチの方法


 


ライフル構え型


 


時間の数え方


 


WOMBS』の作中にはこういった妊婦ネタがそこかしこに散らばっていて、そのどれもが軽い自虐を交えた心地よいブラックジョークで、きっとそれは妊婦当事者となった人間にしか思いつかない適度なエグみなんだと感じるんですね。戦闘呼吸法がラマーズだったり、良いなぁと思うんです。


 


私が妊婦ネタを考えようとすると、どうも血なまぐさい下品なものになってしまう。


どうあがいても部外者の侮蔑に笑いを混ぜた最低なものしか生み出せないのです。


たぶんこの男性隊員と同じようなことしか言えないし、この男性隊員この次のコマで上官に見つかってボッコボコされてるんで、私もボッコボコにされるんだろうと思います。


自分も妊娠の当事者となってオリジナルの自虐妊婦ギャグ考えて流行らせたい。


 


物語のSF的要素以上に、妊娠の当事者たる主人公達と、妊娠の部外者たる私の間の、この精神的距離って本当にでっかいなぁって思うんです。


 


出来うる限り物語の、出来事の当事者の心に寄り添って何かを読み解いていきたい、そんな風に思うのです。なので少女漫画を読むときにも、できれば少女のような気持ちで読みたいのですが、どうあがいても私は髭面のきちゃないやからであって、どこか登場人物の少女的思考についていけない、隔たりを常に感じてしまいます。


 


 


そして『WOMBS』はメインキャラが女性であるという事に加えて、子宮の有無という肉体構造の違いまでもが、私の作品への没入とか深めの共感を生みづらくさせている。その反動で私は少しでも近づこうと齧りつくように読む。深淵な溝を感じつつも私は『WOMBS』という漫画がとても好きで、こういうブログを書いてしまうまでに至っています。もし私に子宮があったら、この漫画をどう読んでいたのか、想像できません


 


話がとっ散らかりましたが、子宮ってすごい魅力的な臓器だよねってことと、『WOMBS』は子宮持つものと持たざる者との溝の深さを知る、とてもいい漫画だよって感じの話です。




そういや『ハンターハンター』の女王蟻とか『リュウマノガゴウ』でこの前破水してたあの人とかも似た感じがありますね。あとちょっと思い出したB級映画のことを蛇足で描きます。


 


自分の生命をも脅かしかねない存在を、自分の中に作りかねない臓器だなんて、いやほんとうに子宮ってすごいですね。


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漫画を読むときの動体視力的なものについて:『カブのイサキ』






『カブのイサキ』は人間のサイズはそのままに、地面の大きさだけが10倍になった世界を描いた漫画です。土地が10倍になったということは家と家、町と町との距離が10倍になったということで、『カブのイサキ』の世界では小型飛行機が現実世界のトラックのような交通手段として普及しています。


 


 





主人公のイサキ、カジカ、シロさんは同じ町に住んでいるご近所さんで、シロさんは自前の飛行機カブを使った運送屋を副業として営んでお
り、イサキとカジカがたまに手伝うという、ただそれだけの漫画です。


 


 


 


人口密度が下がって、生活圏の中での人間とのかかわりが少し薄くなりつつ


 


移動距離が長くなったことで一人の時間が増えつつ


 


飛行機の発着上などの人が集まるところではヒコーキ乗り達との出会い諍いありなどなど


 


 


 


毎話毎話、イサキたちが運送仕事の途中で立ち寄った休憩所や飯屋や、巨大サイズに変貌した構造物などの風景を、鈍行列車で旅行しているような気分で見れる、そんな漫画です。


 


常に霧のような靄のようなとろっとした空気が漂っていて、早朝だか夕暮れだかふしぎな浮遊感・荒涼感があります。


 


作者の芦奈野ひとし先生は鶴田謙二先生が好きとのことで、『冒険エレキテ島』とかに似た風情を感じます。


 


 


 





 


で、そんな小旅行感覚のまったり加減が気持ちいいってことに加えてもう一個、私が『カブのイサキ』について特に良いなと思うことがあって


 


それは作中の時間・物事の流れが自分の漫画を読むスピードにあっているように感じるってところなんす。


 


 


 


 
イサキたちの生きている世界の時間軸と、私の生きている現実世界の時間軸が、ちょうど同じ速さで進んでいるような、そんな感覚がするというか
この絵の一コマの中でイサキたちが感じている時間の流れと同じ速さのそれを、私の頭の中で想像できている感じがするというか





私は本を読むスピードがかなり遅くて、漫画を読むときであれば絵とオノマトペから得た情報を脳内で処理して、アニメのように動いている様子を想像する基本的なプロセスにかなり時間がかかるというか、とにかく情報処理能力がショボイんです。インターネットエクスプローラみたいな感じです。


 


 


臨場感のあるバトルものとかレースものとか、なんだか実際の速度や迫力を自分の脳内で想像構築する前に次のコマ(次の動作)が迫ってきて、上手く臨場することができないことがよくあるんです。


 


 


 


ドラゴンボールとかナルトとか、動きが素早くかつ手数が多い描写なんかはものすごく乗り遅れてる感、私がテンポに乗りきれずもたっている感じがしてならないのです。特に戦闘シーンにカンフーアクション的な体術が散りばめられている作品、およそ常人にはできなさそうなアクロバティックな動きをする『ドロヘドロ』の二階堂とか、かっこいいなと思う一方で少し困惑してしまいます。


 




空中で回転運動を加え、攻撃態勢を整えて膝蹴り、ゆっくり読めばどんな動きをしているのかわかるんですが、きっと漫画の中の二階堂は私が想像を完了させるより早く次の攻撃に移ってしまっていると思うんですよ。





アニメ化が決まった『ワールドトリガー』も大好きなんですが、バトルシーンが立体的というか三次元的というか、どういう動きで敵と相対しているのかよくわからない場面がたまにあります。


 


 


 


このコマはまだいいんですが、最近では角つきの敵に対して数人編成のチームで市街戦をしていて、なかなか情報処理がおっつかないシーンが増えてきました。

なので、アニメ化でその辺が動く映像でわかりやすく見れるというのは、とてもありがたいことです。


 





 


最近、恥ずかしながら『頭文字D』を初めて読んでとても面白いなと思ってコツコツと読み進めているのですが、峠のダウンヒルでのスピード感、バトルの緊迫感を自分の脳内で作り上げるのがけっこう大変で、一話読むだけで体力使ってしまうんす。


一コマ一コマに詰め込まれたスピードの情報、主人公・拓海の一瞬の変速だとかブレーキの加減だとかを処理しようとするととても時間がかかって、せっかくのデッドヒートが私の脳内でチョロQスピードになってしまいそうでもったいない気がするんす。作中のスピード感についていくために、対戦車の葛藤の内容とか、観覧者の解説とかテクニック的なことはちゃんと理解しないままに、「なんかすげぇ神がかりなテクだったらしいぞ!」ぐらいに流してとりあえず次のコマに移って行ってしまうんす。あまり車に詳しくないということを含めても、『頭文字D』特に最初の方はいろいろ語ってくれて内容が詰まっているのにそんな読み方でいいのかと、少し悩んでいます。


濃密な漫画も読んでてめっさ面白いんですが、たまに自分の処理能力を超えた情報が流れてきてわからなくなったりしてしまいます。もっといえば、その物語の中にいる登場人物たちの生きる時間はすさまじい勢いで流れていて、自分のような鈍牛にはおよそ渡りきれない激流の中を生きているのではないかと、嫉妬のような憧れのような妙な気持ちになったりします。拓海の助手席に座って気絶したガソリンスタンドのおっさんみたいな気持ちです。


拓海の生きている世界が私を置き去りに進んでいく感じがします。


 


 





 


『カブのイサキ』は一コマ一コマに描かれた動きが非常にゆっくりで、かつ読んでいる私のいる時間軸と同じ速さで世界が進んでいるような、そんなちょうど良さがってすごくうれしいです。内容がまったりしているから読むスピードもゆっくりめに抑えられるし、とりあえず、とても自分の読書スピードにあっているような、嬉しさがあります。


 会話の口数、情報量も無理せず受け入れられる容量なので、抵抗なくすんなりと読めます。


 


飛行機の速度なんて想像できんのかよと言われれば困りますが、『カブのイサキ』を読んでいる時には、なんかできている気がするんですよ。


 


漫画のコマの中の飛行機の速さが、自分が頭の中で動かしてみた飛行機の速さとそんなに変わらない感じ、少なくとも自分の方が遅いと感じることはないんです。
漫画を読むときの動体視力的な何かがしょぼい私にとって、そのことが非常にうれしく、私はこの漫画がすごく好きなのです。


 


 





 


どうでもいいことですが細目の書き方も好きです。一本線じゃなくて瞼と瞼が融合しかけてる感じ、わずかに黒目がチラリズムする感じがとても良いです。






芦奈野ひとし先生は現在『コトノハドライブ』を連載中でこれもとても良く、前作の『ヨコハマ買い出し紀行』もそのうち読んでみた
いと思います。


 


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拳死狼
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