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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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忍者ブログでの更新を終了し、はてなさんの方に移転することにしました。
こちらで書いた記事のいくつかも修正して、はてなさんにもっていく予定です。

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不良を不良に追いやる不良:『湘南爆走族』『天使のはらわた』



吉田聡先生の『湘南爆走族』を読み直して大層感動したので、その話です。



『湘南爆走族』は手芸とバイクが大好きな主人公・江口洋助が神奈川最強のレーシング暴走族「湘南爆走族」の二代目総長に任命されて、学校と手芸部と族、それぞれの仲間たちとすったもんだ暴れまわる、ギャグが主体の青春漫画です。


族の総長としての江口君は周囲のツッパリに対して絶大な影響力を持っていて、道を歩けば他校の不良から挨拶され、ガンを飛ばせば半端な不良は逃げまどい、喧嘩をすればどんな人数さもものともしない、まさに「最強の不良」です。


一方で仲間内での江口君は、互いに茶化し合う対等な関係を築いていて、強い信頼関係にある。族の総長というより普通のヤンチャな高校生男子で、なんというかめちゃくちゃ良い人です。


そして彼には手芸という非常にフェミニンな趣味があって、唯一の男子部員として穏やかな女子生徒に囲まれてチクチクとパッチワークに励むという、平和的な一面があります。手芸部員は皆江口君の優しさを知っているし、またヤンチャないたずら小僧としての一面も知っているので、非常にぞんざいな態度で江口君と接します。クラスの男子に対するそれより、ややひどいくらいのラフさで、手芸部員と江口君は楽しく文化祭の準備にいそしんだりするのです。


 


しかし彼は放課後にはバイクにまたがり、すさまじいスピードで公道を駆け抜けて街を騒音で包む、『湘南爆走族』の総長としての姿を現します。「湘南爆走族」の総長である時、彼が手芸部部長としての顔をのぞかせることはなく、また手芸部で編み物をしている時、彼は「湘南爆走族」の総長としての顔を見せることはありません。


 


江口君を含め湘南爆走族のメンバーは、日常生活ではただのヤンチャな男子高校生で、その実は非常にやさしい人物ばかりです。彼らは悪に手を染めることに積極的ではないし、社会や体制に対する不満もない。ただ自分たちの好きなように生きたいという意思表示としてツッパリスタイルをとっています。人に迷惑をかけたいわけではなく、悪いことやってる俺強いみたいな意識もない。ただバイクが好きで、爆走するのが好きで、やりたいことをやった結果、社会にとって迷惑な存在になってしまった。そんな印象があります。


 


彼らは決して悪ではない、しかし生き方を世間から認めえもらえず、不良というレッテルがつくようになった。『湘南爆走族』に登場する不良たちはみな悪とは呼べない、善良と認めてもらえなかった人々であって、暴力的な思想で他を威嚇しようとする人間はほとんどいません。基本的にみんなやりたいことやってるだけで、行き場のない怒りを爆発させたりはしないのです


 


しかし彼らは不良であり、神奈川最強の暴走族です。


受動的にではありますが、血で血を洗う抗争に巻き込まれることもあるし、時に暴力をふるいます。暴走族として暴力的な争いに参加している時の彼らは、あまり楽しそうではありません。


 





不良漫画、例えば『WORST』や『クローバー』なんかは敵との抗争となると、なんというか運動会的なムードが生まれるというか、彼らはとにかく湧き上がる衝動赴くままに暴力を発散しまくります。タイマンの際も特にセリフが入ることもなく、カンフーアクション的に肉体的優劣のみが描かれ、最終的勝敗がつくまでそれが連続していく。すごく暴力的なんだけど、どこかレクリエーション感があるというか、天下一武道会のような明るさがあります。どっちがつおいか、ただそれだけを争うシンプルな物語です。不良漫画というより、不良が主人公のバトル漫画としての色が強いように思います。


 


しかし『湘南爆走族』の中で起きる族間の抗争は、強い悲壮感に彩られています。お祭り感もレクリエーション感もない。この悲壮感の原因は何か。


 


暴走族・ブラッディヒールと湘南爆走族の抗争は非常に暴力的なつぶし合いになりました。ブラッディ―ヒールは初代総長がケガを理由に失踪、副総長の火影が実質的なリーダーとして指揮を執っているチームです。初代総長の恋人紅子さんと火影くんはリーダー不在のなか族を何とか守ろうと懸命になるあまり、隣接するエリアの暴走族を次々に襲撃し、勢力を拡大することでチームを維持するようになります。野心が暴力的な勢力拡大を引き起こしたのではなく、チームへの愛と弱肉強食の不良社会への恐れが、彼らを悪の方向に導いていったのだと思います。


 


特に副総長の火影くんの、極端に暴力に傾いた発言はとても印象的でした。


 


彼の考え方は不良としては正しいものです。しかし、これは自分の行動を正当化するために不良社会の文化を引用しているだけであって、心からそう思っているようには、真に悪の心を持っている人間の発言には、どうにも見えないのです。不良なのに善良な心を持っている湘爆、地獄の軍団のメンバーを火影くんは全面的に否定します。これは彼が自分の暴力性を肯定し、折れない心を保つため、自己防衛の叫びのように見えます。


 


暴力をふるいたく不良になったわけではない、自分のチームの勢力を拡大したくて暴走族に入っているわけではない、誰かを力で支配したいわけでもない。彼らは単にバカやるのが好きで、社会に適合することができなくて、何となく集まった単車好きの人たちであって、そんな人間が「暴走は暴力だ」などと考えるようになるとは思えない。火影くんは自分のチームを守るために暴力による勢力拡大を正当化せねばならず、こういわざるを得ない立場にあったのです。火影くんや紅子さんが無理に粋がるたび、そんな葛藤がビシビシと伝わって生きて辛みが増す。


 


不良とみなされた以上不良としての強い意志と力を示し続けなければ、彼らは生きていけない。彼らの生きている世界は、本当に苛酷だと思います。


 


不良であるがゆえに力を維持しなければならない、そのためには残酷・暴力的な精神も必要となってくる。不良文化は彼らに残虐さを強要しかねない。不良として生きていく以上、彼らは不良的暴力的方向にしか、進むことを許されていないのです。


 


ナメられたら負け、引いたら示しがつかない、族というブランドを守る、誰かの遺志を継ぐ…これらの要素は不良たちを思いもよらないほど過激な選択に誘導していって、彼らに不要な勇気を与えてしまいます。また不良社会に足を踏み入れた以上、彼らはそれに従わなければならず、戻り道も別の選択肢も見えなくなる、絶対的一本道を作り出すのです。






 


この返し刃構造というか、後戻りできない弁のような不良社会の風習が大惨事につながってしまう例として『天使のはらわた』の主人公の人生は典型的です。彼はかなりの悪ガキで学校にも通わずに強盗まがいの犯罪に手を染め、時には強姦すらやっちまう糞野郎なんですが、妹・恵子の間では絶対にその姿を見せません。


カツアゲや強盗を繰り返し、父の残して借金を返済、生活費と妹の学費まで捻出する、ある意味かなりの働き者です。妹には悪の道に進んでほしくない、ちゃんと学校に通わせて良い人生を送らせてやりたいと願う、良い兄ちゃんでもあるのです。しかし彼の築き上げた不良としての実績と、彼を取り巻く環境は彼を更なる不良の道へと追い込んでいきます。


 


ある日彼はとある女子高生に一目ぼれをするのですが、その女子高生が自分の仲間に犯されそうになっているのを止めてしまったことで、仲間から不信を買ってしまいます。仲間たちは主人公が妹の手前いい子ぶっていると批判し、仲間の替わりにお前が彼女を犯して見せろと、強要します。そして不良集団のリーダー格として、彼はその仲間の要望を拒否できない。犯さざるを得ない。


 


そして主人公が女子高生を襲ったところから、彼の人生は悪の道へと拍車をかけて進んでいきます。女子高生の父親が復讐のために主人公の妹に暴力をふるい、また父親の口から、女子高生がかつて強盗に母を殺され、かつ強姦されるという辛い過去を抱えていることを知り、強い精神的ダメージを二発同時に受けてしまいます。


 


 


主人公は深い罪悪感に苛まれ、暴行された妹を連れて帰る途中に、苛立ちのあまり、うっかり私服警官に暴力を振るって逃亡してしまいます。


 


悩んだ末に自首を決意した主人公は女子高生にしっかりと謝罪してから警察に出向こうとしたのですが、道中またしてもうっかりヤクザともめ事を起こし、正当防衛でヤクザを殺してしまい、殺人の現行犯で逮捕されてしまいます。懲役五年の刑を食らった彼は身寄りのない妹を残して刑務所へ入れられてしまいます。


 


 


 


5年の服役を経て娑婆の世界に返ってきた彼は、殺人経験ありという凄みを買われて犯罪集団の用心棒として雇われ食い扶持をつなぎます。


 


そんな彼がある日、投獄以降音信不通となっていた妹と偶然再会します。妹には暴力の世界に入ってほしくないという彼の思いに反して、妹はスケバングループの番としてどっぷりと不良に育ってしまいました。身寄りを無くして収入を失った彼女は生きるために不良になり、学校も辞めてしまっていたのです。この時の主人公の悲しみは想像を絶するものがあります。彼は自分の守りたいものを、不良社会によって次々に壊されていったのです。


 


出所後に妹と一緒にすき焼きを食べる主人公


 


たとえ自分が本当にやりたいと思っていなくても他人からたきつけられたら、やるしかない。拍を見せなければなめられ貶され、良いように使われてしまう。不良社会とは恐ろしい実力主義社会で、サイクルを早めるためか常時このようなふるいがかけられます。数々の試練を乗り越えることができれば、彼らは不良社会の頂点にたどり着くことができるのかもしれません。主人公は不良社会の暴力至高主義に押し流され数々の暴力行為に手を染め、多くの人間的な財産を失いました。


 


実力主義の弱肉強食の風習が、暴力に積極的でない不良までも暴力的な方向へと押しやり、彼らは自分のふるう暴力と優しい精神に挟まれて、時折非常に悲しそうな表情を見せます。


それは私の一番好きな不良の表情です。


 


 


不良漫画への評価として「管理社会への反抗」とかそんな言葉が使われているのをよく見ますが、『湘南爆走族』も『天使のはらわた』も、どちらも「管理社会への反抗」に焦点を当てた物語ではありません。彼らが反抗心を示しているのは管理社会などという大きな枠組みではなく、彼らが生きる不良社会の風習に対してだと思うのです。


 


不良とか自分とは違う生態を持つ生き物に対して軽々しく共通点を見出して、自分に近しい存在とみなす行為は危険だぞいとか、以前異生物に関する記事で書いてしまっているのですが、ここで触れたのは『湘南爆走族』ほかいくつかの作品に登場するフィクション的な不良についてなので、大きく矛盾してはいないのではないかと、自分では思っています。不良の生き方や行動指針に共感することはありませんが、感動することはあります。それはかっこいい動物を見たときのそれと同じものなんだと思います。


 


 


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『何もないけど空は青い』をやや大げさに読んでいます




 


崩壊した世界の中で生き延びるという物語は良くありますが、その主人公が闘争に肯定的であるかどうかという点は、物語の質を大きく分ける分水嶺であると思います。


 


 


少ない生活物資を確保するため積極的に戦う主人公であれば、『砂ぼうず』のように強いものが正義という価値観が作品の路線として、他の登場人物にも共有されていきます。


 


ジョージ秋山先生の『アシュラ』はその極端な例です。干ばつと飢餓という極限状況下で人間の尊厳や倫理観が崩れ落ちる瞬間をがっつりねっとりと描いていて、倫理観の曖昧な私のショボイ心臓をえぐり取っていきました。




 
つれえよな生きていくのがよ!


これらの作品にははっきりと、倫理道徳の精神が生きる上で邪魔になることが示されています。優先順位はあくまで生存が第一位、精神の充足は二の次です。


 


 






一方闘争に対して主人公が消極的であると、闘争は生きる術というよりも原始的な悪手として描かれ、人間の尊厳や倫理道徳を捨てる人間を批判的に捉え、いかに闘争を避け文化人としての精神を保ちながら生き抜くかというテーマが掲げられるようになります。生き延び、かつ倫理道徳の精神を保つことが漫画の至上命題となります。


 


 


『何もないけど空は青い』は『今日から俺は!』や『鋼鉄の華っ柱』の西森博之先生が原作を務め、『いつわりびと空』の飯沼ゆうき先生が作画を担当するSF漫画で、隕石がまき散らした謎のバクテリアによって世界中の鉄が腐食し、文明社会が一気に機能不全に陥るという話です。


 


鉄で動くインフラは全て止まり、残された少ない資源をめぐって人間たちが争い、無政府状態となった日本の地方都市で主人公の仁吉くんとヒロインの華羅さんが頑張って生きていくのですが、彼らの掲げる倫理観がとても不安定でいつ崩れてもおかしくない危険なバランスにある感じが、私の心をざわつかせています。


 


 


大規模な自然災害・人災によって人間社会が機能を停止して、極限状態で人間の本性があらわになるって流れは、フィクションパニック物の常道です。火事場泥棒や強姦、暴力や組織力で弱者を駆逐する者が現れ弱肉強食な動物社会にまで退化した環境のもと、主人公たちがいかに正気を保って度重なる危機を潜り抜けていくか。生きるということと、倫理観を守ることとを同価値に捉えて、いかに二兎を追い二兎を得るかがパニック漫画の主人公の腕の見せ所です。


 


 


『何もないけど空は青い』の仁吉くんと華羅さんも見ず知らずの少女を引き取ってしまったり、頑張って確保した食料をやつれた親子にあげちゃったり、パニックにおいてもしっかり人間する道を選択していきます。ただ、彼らは殺伐とした生存競争の中で、対峙する相手によって厳しさと優しさをはっきりと使い分けていて、特に第三のキャラ風斗くんの登場以降暴力沙汰が増えるにしたがって、彼らの選択には暴力に頼るケースが増えていきます。


 


倫理道徳は彼らのいる終末世界においては価値が低くて、生存確率を下げかねない非常に危険な思想です。「人を傷つけては(殺しては)いけない」とか「盗みを働いてはいけない」とか、少ない物資を奪い合って生きていかなければならない環境では四の五の言ってられない、生きるために必要不可欠な考え方であるとは思えません。むしろそれを守り続けることは精神の枷となって、生への欲求と人間の尊厳にはさまれて辛さを増していくだけでしょう。その世界が無政府状態のパニック世界である限り、倫理道徳の持つ価値はどこまでも下がり続け、維持するモチベーションも落ちていくでしょう。


 


仁吉くんたちもそのことを空腹と暴徒との戦いを通じて身をもって感じているはずですし、悪者に対して受動的ではありますが、暴力を発動します。しかし善人には協調性と慈悲の心を示し、『北斗の拳』のトキ・シュウ・フドウスタイルで自分たちの生命と人間性をギリギリのラインで守っていきます。


 


今のところ仁吉くん達は倫理道徳を捨てることなく、自分たちの意志で社会的な人間として生きることに成功しています。しかしこのスタイルは北斗神拳南斗聖拳を極めた猛者だからこそ維持できるのであって、剣道部のエースとはいえ一介の男子高校生に過ぎない仁吉くん、一介のスーパー弓道少女に過ぎない華羅さん、金持ちんとこの不良息子の風斗くん、三歳児の玲奈ちゃんでは、微妙に力が足りない気がします。


 


その微妙に力が足りてない危険さを、この漫画はガンガンに強調して描いているように思うのですよ。


仁吉くんと真逆の選択をした人間の、堂に入った悪人っぷり。


 


迫りくる無慈悲の暴力に、慈悲の心をもったまま対抗するには、彼らの戦闘能力は少し物足りないように感じます。彼らは倫理道徳の心を維持するのに十分な武器・力を持っていない、いつその牙城が崩されてしまうかわからない不安さが、気になってしまうのです。


 


最近は仁吉くんが剣道部としての暴力を発揮する場面が増えてきているし、華羅さんもこの状況で甘っちょろいことは言っていられないとニヒルな判断を下すこともあります。しかしチームには玲奈ちゃんという非力代表的な存在がいて、すぐに外的に目をつけられ付け込まれてしまうし、彼女に何かあったりしたら仁吉くん達の道徳心も一気に崩れてしまいそうな、とにかく不安要素が多いパーティー構成です。


 


彼らが肉体的にも倫理崩壊的にも危険な目に遭わないか、それが毎週気になってしょうがなくて、何事もなく一話が終わるのを見届けて少しだけ安心する。稀に見る真剣さでこの漫画の進展に一喜一憂しています。


 


 


 





学がないので学術的な論議があったりするのかよく知らないのですが、倫理・道徳やそれに基づいた罪と罰の概念っていうのは、暴力を持たない弱い人間が暴力に蹂躙されてしまうのを防ぐため、便宜的に組み立てられた思想なのではないかと思っています。


 


誰かに殺されたくないから「人を殺してはいけない」という考えが生まれ、多くの人間がそう考えた結果暗黙のルールとして心に蓄積されていく、多くの人間が共有して同調圧力を持つようになって初めて、倫理道徳とは効果を持つものだと思うのです。社会の大半の人間が「人を殺してはいけない」と考えていれば、誰かを殺してしまった人に対しては社会全体から批判が飛んでいくだろうし、今まさに殺そうとしている人の心の中でもいつの間にか刷り込まれていた道徳心から「人を殺してはいけない」というストッパーがかかるだろうし、より多くの人間が倫理道徳の思想を共有することで、人が誰かから殺される確率は少なくなっているはずなのです。


 


本当に倫理道徳の教義は正しいのか、なぜ倫理道徳を破ったからと言って罰を受けなければいけないのか、そんな問いはどうでもよいのです。倫理道徳に謳われる教義は自分の生命を守ることに都合が良いので守っておくのが吉だと感じます。


 


日本の義務教育のカリキュラムに倫理道徳の授業が組み込まれていることを「思想の強要である」と主張している人を見たことがありますが、そういうことじゃないと思うんですよ。あれは教育を受けた児童・生徒たちがいつか罪を犯してしまいそうになった時に心のストッパーになるように、また社会が平和で協調的に回るために必要な措置であって、直接人間の利己心を抑えることができない統治サイドの苦肉の策だと思うんです。


 


統治の行き届かないパニック下で倫理道徳が守られなくなって略奪が横行したりするのも、「人を殺してはいけない」という思想が人間の本能から生まれるものではなく、状況と意思によって選択できる宗教のようなものだからなのだと思うのです。本能に背いた思想でもないのだし、生きるための合理的な手段として倫理道徳を捨てるのが悪いことであるかと言われれば、その問いこそがナンセンスであると言えてしまいそうな


 


「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えようとすると、私としてはこんな考え方に落ち着きます。


 


とはいえ、上記の発想はかなり無理をして可能な限り冷ややかに倫理道徳を見た場合の、無理にニヒルぶった状態での、私の考えです。実際には私の心のなかにもしっかりと倫理道徳の思想が根付いてしまっているので、人を殺すことが悪いことかと聞かれれば、根拠もなく悪いことであるように感じてしまいます。理由もなく人が殺されれば、殺した人を責めたくなります。さらには、倫理道徳を著しく破った人間は殺してもいいんじゃないか、みたいな都合の良い解釈さえ生まれてきます。


 


そもそも私は力が弱くて暴力を持たない人間なので、どんな世界に転ぼうが倫理道徳というファーストフード的店屋物にすがって生きていくしかないのです。


 


上記の理由で倫理道徳をちゃんと信奉できていない私が、もしパニック世界に放り込まれたらどうなるのか。きっと、微妙に盗みとか働いて罪悪感に苛まれながら自分を納得させようとシニカルになろうと悩んで、もやもやどっちつかずでいるうちにもたついて誰かに殺されたり奪われたりして死ぬんじゃないかなと思います。


 


きっとひどく迷って曖昧な尊厳だけ残した、力のない人間になってしまう。


『何もないけど空は青い』の登場人物たちがどう転ぶかふらふらしているのを見て、心をキリキリやられているのは、どんな状況でも倫理道徳・尊厳だけは守るという意志の強さが自分にはないことを、なんとなく自覚しているからなんでしょう。


 


この漫画、鉄が完全に腐食してしまった世界の話なので、元の平和な日々に戻るっていうゴールは考えられないんですよね。物質的に満ち足りた世界はもう戻ってこない、物質的な充足の上に育つ精神は次第に世界から消えていって、最終的には完全なる弱肉強食の世界になってしまうのではとか、恐ろしい想像もできてしまいます。


その希望の無さが、彼らの倫理道徳という微妙な甘さを際立たせているし、ともすれば弱肉強食的に傾いてしまう危うさにもつながっていて、西森先生も嫌な設定考えたなぁと感動しています。


 




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無料webコミックを上手く楽しめない私の話:『画楽.mag』など


最近無料で読めるweb漫画サイトが増えてきていて、そこから単行本化された作品をいくつか買って読んだりしているのですが、webコミックサイトを定期的に購読するということが全くできないでいます。単行本は買ってるので、興味自体はあるし作品を読んでとても面白いとは感じているのですが、何故なんでしょう。


 


たとえば


〇秋田書店チャンピオンタップ『宇宙怪人みずきちゃん』たばよう


女子高生に扮した宇宙怪人みずきちゃんが倫理観ゼロに街を破壊したり、少年に生の蛙を食わせたりするSF系の話


 


〇小学館やわらかスピリッツの『ストレッチ』アキリ


ルームシェアしてるOL二人組がストレッチで身体をほぐしつつウダウダと生活する話


 


〇講談社マンガボックスの『たわら猫とまちがい人生』日高トラ子


デブな猫の話。


 


など、これらの漫画サイトに私はたまにしかアクセスしないし、せっかくアクセスしてもいくつか知ってる作品の更新状況を確認するだけで読まないことすらあります。その他の作品については、クリックすらしていません。何故だか、無料でいつでも読めるwebコミックに対しては、限界まで読み切ってやろうという力強い衝動が湧き上がってこないのです。掲載されてる作品は面白いのに、続きが読みたいと強く思うことはない。


 


アオハルオンラインも気になってる作品が多かったのですが、ちょっと前にサイト自体が更新終了してしまい、それに合わせて刊行された単行本を買って初めてちゃんと読んだりして、読んでみたらすごく面白い漫画ばかりで、すこし罪悪感があります。


 


〇武富智『The Mark of Watzel


〇三島芳治『レスト―夫人』


『The Mark of Watzel』は読んでて泣きそうになったし、『レスト―夫人』は吉田秋生の『桜の園』や『ラヴァ―ズキス』を彷彿とさせる青春群像もので、すげえ良かったです。


 


できることならweb上の作品すべてに目を通したうえで面白いと思ったものを単行本で買うようにしたいのですが、どうもweb上となるとそのモチベーションが生まれない。webコミックという新時代コンテンツに、私の脳みそがなかなか対応しなくて困ります。


 


なぜ私はwebコミックを楽しめないのか、そんな話を長々と書きます。


漫画の内容とかにはほとんど触れない、私の一人セラピー的な記事です。


 





 


そもそも私の漫画へのモチベーションはどこから生まれてくるのか。


私は毎月30~40冊ぐらい漫画雑誌を読んでいて、自分が好きだと感じるもの・何度も読みたいと感じるものは書店で単行本で買って、ついでに目についた面白そうな漫画を買って、たまに昔の作品の全巻セットをネットで買ったりして、漫画だけでそこそこお金を使って生きています。


 


そうなると生活に必要なもの以外、服とか家具とかおいしい食べ物とか旅行とかにはあまりお金が費やせず、結局毎月漫画と生活費だけで収支トントンな感じです。私がひと月に読み切れる漫画の量は、たぶん現状が上限で、これ以上読む雑誌を増やしたり単行本を買うペースが上がったりということはないと思います。今読んでる雑誌から撤退するとか費やすお金を減らすという考えは、今のところありません。


 


それでも身銭を切って漫画を読んでいる以上、そこから最大限の効用を引き出してやらないといけないなと感じています。今私は予算制約線と効用曲線が接する点にいます。使えるお金と読める漫画の量、その最適な配分の上にいるということです。


 


しかし私は今よりももっと漫画を楽しめるようになりたい。


そのために買った雑誌・単行本から限界まで面白い成分を読み取って、楽しんでやろうという精神が生まれます。限られた予算、時間、読書量とはいえ、そこから得られる効用は自分がどれだけ本気で漫画を読めるかという意気込み次第でどこまでも伸びると思うのです。


 


金銭・時間的にパンパンになった私の、漫画に対しての妙にガチで気持ち悪いモチベーションは、こんな感じに発生しています。


 


ただそれは身銭を切っているからこそ湧き上がるモチベーションであって、例えば他人から借りた漫画とか無料で読めるwebコミックに対して、私はこのモチベーションを抱くことができません。よく聞く「他人からおススメされたものに真にハマることができない」っていうあまのじゃくな精神も、そんな感じで生まれるものなんじゃないかと思います。


 





 


無料webコミックというものに対して、私は読書モチベーションを保つことができません。


 


作品を読めば面白いと感じるし、続きも気になります。


しかしそれが次の更新を待ち望んで更新日にすぐアクセスするような、習慣として生活に組み込まれるまではいかない。


 


 


毎週読んでいる紙媒体の雑誌は有料で、コンビニに行かないと買えないし、隔週誌や月刊誌・季刊などは書店まで足を運ぶという労力が求められます。一方Webコミックはスマートフォンでどこでも読めるし、なによりタダです。それだけ見れば、コストパフォーマンス的にはwebコミックは簡単に読める非常に便利かつ面白い、最高の存在なんじゃないかと思えてきます。


 


それでも私にはwebコミックを毎週楽しみにする習慣は根付くことなく、深く読み込んで限界まで楽しみ切ってやろうという意気込みは生まれない。身銭を切って買った漫画には身銭を切った分、それがある。結果として享受できる効用は有料の漫画の方が大きいように感じるのです。


 


これはwebコミックがコンテンツとしてだめだとか、そういうことが言いたいのではありません。漫画を読むのであれば、無料でさらっと読むのではなく、金を払ってどっしり身構えて読み込む方が、私は気合が入って楽しめると、そう言いたいだけです。


 


無料webコミックを更新日に合わせて読むこ習慣が身につかない私は、結局何回かサイトに訪問して気になったものをメモり、単行本化されたものを買って読むことで落ち着いています。


 


せっかく提示されたコストパフォーマンス性の高いコンテンツを前に、一度そのコストパフォーマンス性を叩き落としてから、嬉々としてお金を払って楽しむという、無料漫画サイトの存在意義を否定しかねない行動だとは思いますが、私のwebコミックに対する姿勢はそんな感じです。


 





 


私は大手出版社の運営するweb漫画サイトしかチェックできてないのですが、好きな漫画家さんがいたり作品があったりしないかいくつかのサイトを巡回したりして、単行本で買うものを探したりしています。


 


集英社の子会社、ホーム社が運営する漫画サイトで『画楽ノ杜』ってのがあるんですが、私は富沢ひとし先生の『エンチャントランド』目当てにちょくちょく訪問していました。『エンチャントランド』以外の、サイトに掲載されている他の作品については、恥ずかしながら全く読んでいませんでした。


無料であるということが、未知の作品に目をやるモチベーションをどうにも起こさせないのです。サイトのいたるところに他作品へのリンクが見えているし、ワンクリックでそれを読み始めることができる、しかしそのわずかな動作が煩わしくて読むに至らない。金を払わないことにはあと一押し、「全部楽しみ切ってやろう」と思わせる後押しがないのです。


 


さて最近、『画楽ノ杜』で更新済みの掲載作品がまとめて読める紙媒体雑誌『画楽.mag』なるものが発刊されました。『画楽ノ杜』掲載作品に加えて諸星大二郎『暗黒神話 完全版』や、ながやす巧『壬生義士伝』の続編が載るということで、私もそれ目的でこの雑誌を購入しました。


 


そこには当然『エンチャントランド』以外の、web上で私がスルーしていた作品もたくさん載っています。


しかし私は、紙媒体ではこれらの作品をスルーせず、すべて読んでしまいました。


 


ぱらぱらめくってると勝手に目に入ってなんとなく気になってしまう、雑誌の特性ってのもあるんですが、それ以上に700円ぐらい払って手に入れたこの雑誌を、余すことなく読み切って最大限楽しんでやろうという意気込みが私にそれらの作品を読ませたのだと思います。そして読んでみれば面白い作品がたくさんあって、webでスルーしていたことを後悔すると同時に、紙媒体で有料で読めたからこそ、この出会いが生まれたのだと嬉しくなりました。


 


ちょっと表紙がエロ漫画雑誌みたいで置き場所に困りますが、そんなこと気にしてられない良い漫画雑誌だなぁと感じます。


 


 


 




 






Web漫画サイトはライトな漫画ファンの人にとってはとても便利で親切な存在だと思います。個人的には、webサイトでは最新話と1話目が無料で読めてライト層をキャッチ、一方で紙媒体の雑誌と単行本で前時代的な私のような人間もキャッチするようなそんな環境が、数あるweb漫画サイトにも整備されれば理想かなぁと思います。



おわり


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岡崎二郎と異生物:『アフター0』『緑の黙示録』とか


 


岡崎二郎先生の漫画『アフター0』はオムニバス形式の
SF短編集なんですが、その中に「偉大なる眠り子」という数話にわたる続き物のシリーズがあります。


 


 


商社に勤めていた主人公は麻薬問題のトラブルに巻き込まれて事故死してしまうのだけど、この世への強い執念から新婚の妻の腹に宿った子供の精神に入り込み、精神年齢34歳の乳飲み子としてこの世に再誕してしまう、ってところから話が始まります。外見は1歳児、中身は生物・植物学に長けた聡明な企業戦士というスーパー赤ちゃんあきおが、降りかかる様々な困難を頭脳で解決する、「偉大なる眠り子」はそんな話です。


 


そんな「偉大なる眠り子」のなかで印象的だったのが、赤ちゃんの脳に関するこんな話。


 


大人に比べて脳のシナプスの数が多い赤ん坊は脳内が未整理な状態で、プリミティブな脳内回路ゆえに味覚が特別敏感にできているという。赤ん坊は味を見分ける経験を積んでいないので味の違いを意識することはなく、経験を積んで味の違いが分かるようになった頃にはシナプスは既に整理されていて、味覚は次第に成人男性のレベルに落ち着く。しかしスーパー赤ちゃんの昭夫は、34歳の人生経験を持っていながらにして赤子の敏感な味覚を持っているので、あらゆる料理の旨味を鋭く察知することができる。


 


そんな昭夫の能力に目を付けた超一流グルメさんが、この世で最もうまい料理はなんなのか昭夫の超絶味覚で選定してもらおうと招待します。世界中の一流シェフの料理を次々に試食し採点していく昭夫ですが、結局料理に順位をつけることに意味はない、強いて言えば愛情のこもった家庭料理こそが最高、という結論に落ち着きます。


 


ここまではふむふむなるほど、と落ち着いて読んでいたのですが


 


話の最後に、昭夫が個人的にこの世で一番うまいと感じる食べ物について、激白します。


 


 


母乳~!


 


私たちは既に赤子の舌を持っておらず、たとえかなり特殊な条件を乗り越えて母乳を飲むチャンスを得たとしても、ここで昭夫が言う絶妙な飲み心地を体感することはできない。


 
赤ん坊のプリミティブな脳内構造と、34年の味覚経験を持つ昭夫だからこそ楽しめる母乳の味わいということだそうです。



この「偉大なる眠り子」を読む限りでは、赤子も、すでに大人になってしまった私にとっては脳の構造も感覚も異なる、いわば異生物です。
彼らに見えている世界は、いろんな経験を積んで脳内の情報が整理された成人の私とは違っているはずで、赤子のころの記憶がない私はその感覚を共有できない。
「偉大なる眠り子」では、赤子のシナプス量の多さが引き起こす様々な特殊感覚について、視覚についても触れています。子供の時にだけあなたに訪れる不思議な出会い、的なやつです。


 

赤ん坊、やつらはひとたび目を合わせると一切視線をそらさずこちらを観察してくる、しかし何を考えてるかはさっぱりわからない、得体のしれない恐ろしい存在です。
彼ら赤ん坊は私の想像もつかない別世界をみているのではないか、彼らには、私の姿が抽象的観念的なものに見えているのではないか、そんな異生物感が赤ん坊にはあるのです。




この世界には人間以外の生物、数えきれないほどの種類の生き物が生息していますが、それらは人間とはまったく別種の異生物です。犬も虫も微生物も、宇宙のどこかに生息しているかもしれない地球外生命体も、人ならざるものです。


人間の赤ん坊ですら、感じている世界がこんなにも違う。まして人ではない生物であれば、脳や身体の構造が違うという事に加えて、意思疎通をとることができないという事であり、それは感覚や情動の体系が全く違うという可能性を示しています。 自分の飼っている犬猫でさえ、どれだけ彼らとの間に親密な関係を作っていたとしても、何を考えているのか実際のところはわかりません。飯をくれと皿をひっかく、外に出せと窓に突進する、目に見える形でアピールされた欲求は生物の共通の情動として容易に理解できますが、彼らが飼い主のいない部屋で寝転がりながら何を感じているのか、散歩の途中にふと歩くのをやめ彼方を見つめながら何を思っているのか、私にはさっぱりわかりません。


それは人間に理解できるタイプの情動なのか、人間にはおよそ想像のつかない犬ならでは、猫ならではの感覚に彼らは浸っているのではないか。これほど体の構造が違う生き物には、人間の私とは全く違う感情の体系があって、彼らはその中で全く違う世界を観ているのではないか、とかちょいちょい考えています。


 


『アフター0』に代表される岡崎二郎先生の漫画には、地球に生息する生物や物質のもつ特異な性質について科学的な説明を加え、未解明の点について筆者独自の非科学的な推測を加えていく、という話がたくさんあります。時にそれは非科学的なSFレベルの話にも発展するのですが、それが実現不可能なファンタジーとは思えない妙な説得力を持って迫ってくる、そんな面白さがあります。

幾つか私が読んだものを紹介しながら、思ったことをびやっと書いてみます。





『緑の黙示録』全1巻



 『緑の黙示録』は植物の声を聞くことができるスピリチュアル少女が、植物にまつわる奇怪な事件を解決していく話です。


 


 


 


『緑の黙示録』の一話目は、人間が植物ホルモンを使って植物に命令を下し、作為的に有害物質を分泌させることで殺人計画を完遂するという話です。これは人間から植物への一方的なコミュニケーションが可能であるということを示しています。植物は純粋であり人間の与える刺激に無邪気に反応する、自我のない生物として描かれています。無理やり人間の手で有害物質を発散させられた植物の、疲れた心をヒロインが読み取って、事件の糸口を掴み解決へと導いていきます。


 


しかし二話目以降、人間から植物への意思疎通が難しくなっていきます。植物が植物としての行動規範を持って、人間の意向に背くようになるのです。


 


 


有毒な揮発性物質を、人間への攻撃手段として垂れ流す植物。


 


 


ヒロインは植物の心を読むことができる、しかし彼女は植物との対話に失敗し、植物に殺されそうになります。植物の中の、人間を痛めつけようという強い意志に阻まれヒロインの声が届かない。植物が人間に憎悪を抱いて能動的に危害を加えようとするという、かなり非科学的な話なんですが、従順な生き物だと思っていた植物が全く人間の言うことを聞いてくれない感じ、なかなかの異生物感があって恐ろしい。


 


 


作中では植物の生物的な性質や反応については化学的な説明が加えられていて、登場人物も植物学者ばかりなのでストーリー上、植物たちがとる行為のメカニズムについては解明されます。植物にも殺人的な力があるということは、科学的事実として理解できる。


 


しかし、植物がなぜ人間を殺すような作為的な行動をとったのか、そもそも植物には感情などあるのか、『緑の黙示録』ではそのことについて一切触れられていません。「植物が人間に憎悪の念を持った」という推測が提示されるだけです。植物の心を読む少女が登場するこの漫画でも、植物が世界をどのように見ているのか、ということは解明されない。


 


我々は人間であり植物になったことはないので、永遠に植物の気持ちはわからないのです。
どれだけ親しみをもって接しても、異生物という壁は非常に厚いなと感じます。





『まるまる動物記』全2巻


 


 


『まるまる動物記』は民族説話に登場する伝説上の動物の由来とか、人間が肉体的に弱い動物に進化した理由とか、とにかく生物にまつわる面白い話をオムニバス形式でいろいろ紹介してくれる漫画です。


 


 


 


そのなかに「心が通じ合う話」という回があって、そこでは動物にも感情はあるのか?という問題について触れられています。


 


 


 



人間以外の動物がどんな感覚世界を生きているのか、たとえその真相を解き明かすことができたとしても、それは人間によって理解された感覚であって、彼ら自身が感じているものとは違っている。結局は人間の感覚というフィルターを通したものとしてしか理解できないのだということです。


 


人間は動物にも自分たちと同じような心があると思ってしまい、ある種の勘違いのおかげで人間は動物と親密になろうとする。たとえ異生物であってもそこに人間に似た表情や仕草を見つけては擬人化して親しみを持ってしまう。


 


理解の及ばない異生物に自分と似たところを見つけて親近感を抱くことは、悪いことではないように思うのですが、それは未解明の点をあえて無視して人間に都合の良い存在として解釈しているだけなのではないか、とか思うこともあるのです。それはある意味、野性・自然をなめてかかるという行為であるようにも思えます。





異種の存在に不用意に親近感を抱くことの危険さ痛いな話がしたいので、ちょっと別の漫画家さんによるモンスター漫画を引用します。


田中雄一作品集『まちあわせ』に「害虫駆除局」という話があって、驚異の繁殖力で人間の生活圏を浸食する異生物「12脚虫」と、それを退治する害虫駆除局の職員たちの話です。


12脚虫は人間を捕食する、人類としては決して相容れることの無い存在です。しかし主人公・小野崎は12脚虫に対して恐怖心を持たず、警戒もしていない。むしろ愛着を持って接しており、害虫駆除の仕事にも身が入らない。


 


人間を苗床に卵を植え付け、ケツから栄養満点の蜜を出して苗床の生命を維持し幼虫を育てる恐ろしい虫・似我虫(じがむし)に対しても、小野崎君は臆しない。というか、少し危機感に欠けている、危うい馴れ馴れしさを見せます。


 


生命として人類を侵害している似我虫のケツから蜜を吸い取る、肝が据わっているというより、生物として何かが欠如しているように思えます。
似我虫に捕獲され幼虫の苗床にされていた上司の妻を救い出した後、犠牲者の凄惨な姿と似我虫の恐ろしい生態を目の当たりにしても、小野崎君はまったく他人事のように似我虫を愛する。彼は似我虫が人間を襲う敵であるということを、危機感を正しく認識できていない。


 


その結果、彼は似我虫につかまり巣にひきずりこまれて苗床にされてしまいます。害虫駆除局の迅速な対応によって小野崎君は救助されるのですが、その身には拭えない恐怖が残り12脚虫への愛着は一気に消え去ります。


 


 


この後小野崎君はさらにひどい目に遭い、害虫を1匹残らず殺してやることを決意します。


 


当初彼は12脚虫の生態について深い知識を持っていたにもかかわらず、彼らを敵視していませんでした。犬や猫にするように話しかけ愛着を持ち、彼らが人間を襲い、命を奪う力を持っていること、それが彼らにとってごく普通な生殖活動であるということ…異生物と人間の間の埋めがたいギャップを認識できていなかった。彼は12脚虫を愛していましたが、12脚虫の力をなめていたのです。怪物の破壊的能力に魅せられて非人道的な研究をする変態博士が研究対象に殺される話って、よくありますよね。


ケツから栄養満点の蜜が出るとか、似我虫の幼虫はちょっと顔が笑ってるように見えるとか、そんな人間に利益をもたらす要素よりも、12脚虫には警戒すべき攻撃力がある。いかに12脚虫に好意的にふるまっていたとしても、その攻撃の矛先が自分に向けられないという保証はどこにもない。小野崎君は異生物を科学的に理解できた気になっていたのかもしれませんが、生物として12脚虫のことを認識できてはいなかったのだと思います。


 





 


HUNTER x HUNTER』でもキメラアントの王やユピーが人間的な感情を抱いていることに会長とナックルは惑わされていました。ナックルはユピーを人類の敵として抹殺すべき存在と割り切れず、一方でネテロ会長は王に芽生えた人間性はむしろ人類を惑わせる危険なものと考え、王の人間らしい精神的弱点を突いて優位に立とうとしましたね。


 


自分にとって危険かもしれない異生物に、自分と似た精神性を感じたからと言って安易に親近感を抱いたりしてはいけないなぁなどと思うのです。そんな危険な異生物なんか現実に出会うことねぇだろとか言われるかもしれませんが、強面の人間とか、ヤンキーとかでも同じことが言えると思うのですよ。一見怖い人が実は優しくてギャップ萌えとか、かわいいとか言っている人を見ると、すごく危ないことをしているような気がしてならない。


 


 


自分とは全く違う生き物について、自分のフィルターを通して都合よく解釈するというのも嫌だけど、実際彼らの考えていること、彼らの感じている世界をそのままに理解することはできない、異生物に対しての態度が、私の中で全く固まりません。


 


文章に書き表すことで、他の生き物に対する恐怖心ばかりが高まってしまいましたが、それが悪いことであるかどうかも分からない。
ペットに対しても、その辺の動物たちに対しても過度にお近づきになろうとすると嫌われるし、人間とは分かり合えない動物とはいえ嫌われると傷つくので、ネテロ会長のようにあまり擬人化せず適度な距離を測って生きていきたいです。

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拳死狼
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