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魍魎拳

漫画の感想の置き場

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男装の麗人の話

ビックコミックスペリオールの「六文銭ロック」(作:武論尊、画:池上遼一)の第三話「ロスト童貞」を読んでたら、森蘭丸が実は傾城の美女で真田幸村の童貞を奪いにやって来る!っていう展開があってヒャッハーってなったんですが


男装の麗人、と聞いて人は何を思い浮かべるのだろう


宝塚歌劇団やリボンの騎士、ベルサイユのばらなど、女性がその素性を偽って男性として振る舞う物語は古今東西様々ですよね


また男装の麗人にも二種類あって、物語の最初から読者に素性が知れてるパターンと、物語途中で「男だと思ってたあいつ、実は女だったんだ」ってなるパターンがあります


前者はまさに「ベルサイユのばら」ので、思い人への想いと自信の社会的立場に挟まれて苦しむヒロインっていう王道展開が予定調和的に生まれてくるので、女性目線の少女漫画に多いように思います
「花ざかりの君たちへ」や「BASARA」なんかもその例ですよね


しかし、一男性読者として私が待ち望む展開、あればとても嬉しいの
は断然後者で「お前女だったのかーッ!」っていう、予定外ヒロインキャラの乱入展開なんですよね


例えば「ウダウダやってるヒマはねぇ」の桃宮美里


単車の重心操作もガチ喧嘩もお手の物な一匹狼リーゼントが、まさかの女性…



続いて「Ultra Red」の山田吾郎

無差別格闘技大会で主人公の殺法を完全に封じた武道家は


女でも世界最強になれることを証明すべく素性を偽って男子部門に潜入した拳法少女で

おっぱいの感触でバレるという
本名は火月礼央


入浴シーンで女とバレるパターンも多く「クレヨンしんちゃん雲黒斎の野望」の吹雪丸に始まって「火の鳥異形編」の八百比丘尼…

「西遊妖猿伝」の二郎

孫悟空もちょっとびっくり
ちなみに二郎は「にろう」と読む、「じろう」ではない

「幽麗塔」のテツオなど



男かと思いきや女だったのかーッ!は性的要素を多分に伴って発覚することが多いようにも思います。ドラゴンボールの方の孫悟空もブルマにきんた枕がついてないことにきづいて初めて彼女を女性と認識してましたよね。


男同士分け隔てなく付き合っていた相手が実は女だった、そのキャラクターは男にとって性の壁を感じざるを得ない存在となり、意識せざる死角から視聴者にお色気奇襲をしかけてくるわけですね。


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まぁなんていうか、野郎からすると男装と性的要素は分けることのできない関係にある気がするんですよ。


調べてみるとAV界にも男装の麗人ってカテゴリーが確立しているらしく、そこには正道ではない偏屈な性の嗜好が存在するようでなかなか奥深い世界が広がっているのではないかと、想いを巡らせるわけです。


で、ためしにその「男装の麗人」モノAVってのを見てみたんですが、私が漫画や小説から受けた衝撃とはなんか違うんですね。

だってAVって最初から女だってバレてるし、下手なアニメコスプレモノを見てるような寒々しさがあるのです。やはり男装の麗人の最大の魅力、その本質は「お前女だったのかーッ!」という驚きと暴露の快にあるんだと。


なので男装の麗人のエロさをAVの中で再現しようとするなら、ガチホモAVのなかに男装モノを紛れ込ませる以外ないだろう。タイトルも俳優名もジャンルもガチホモとして扱われているが、中身は男装の麗人モノという…見る側が「この俳優は男だ」と信じきって認識が固まった状況を作るためには、恐らくその方法しかないだろう。


「さぁガチホモAVの世界に溺れるぞ!」と意気込んだ所で、俳優の片方が女だったとわかる衝撃…が心は男なのでとりあえずそのままGO!
漫画や小説の中に出てくる「男装の麗人」も、大概そういう扱いになりますよね。


衝撃とエロ的な何かを合わせた魅力を持って語られるのが、男装の麗人。


それをAVの中で味わいたいのであれば「男装の麗人モノ」を直接探すのではなく、山ある「ガチホモモノ」のなかを掻き分け


ΩΩΩ<へへへ…お前もさっさと男食の道に落ちちまいな!
Ω<な、なにをする!
ΩΩΩ<ヒャッハー

ビリビリー!
ΩΩΩ<こ、これは一体…
Ω<実は俺、女なんだ…
ΩΩΩ<な、なんだってーッ!?

という神展開を迎えるお宝的「The男装の麗人」を引き当てるしかない。そのためには「きっとどこかにあるはず…」という強い信念を持つことと「ガチホモもわりと行けるかもしれない…?」という素養が必要となるだろう。

現実の世界で男装の麗人に出会おうと思うなら、それほどの邪道と運がなければ叶わないということなのだろう。

――――――――――――――――

私にはそんな情熱はないし、漫画の男装の麗人だけで満足なのでそんな冒険はしませんが、偶然頭の中で見つけた宝の地図を使わず捨てるのもどうかと思ったので

しかし「ガチホモモノ」って言葉から感じられる「ガチ」とか「モノノフ」みたいな響き、そのジャンルのストイックさが表れているようで面白いですね。


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空腹の味


慢性的にお金がない。
お金はないが、お腹は減る。
そのような状況下、人はどのような行動をとるのか。


一つは貧乏工夫レシピで食を楽しむケースだ。コミックバンチの「貧民の食卓」や、スピリッツの「くーねるまるた」なんかが今最先端であろうか。



(一食100円以内の家庭料理を作る無職の父の話)



(ポルトガルからの留学生のマルタさんが日本文学を読みながら貧乏飯を作る話)

安価で手に入れた食材を調理法の妙によって豪華な料理へと進化させる節約グルメを楽しむ。
金も抑えてご飯も食べれる、最善策に見えるこのコースだけれど、私にはそこに参入するに当たって大きな壁がある。




それは、料理の素養だ。
細かい下拵え作業は苦手だし、なにより料理自体あまりしないので調理器具が鍋と包丁しかない、調味料に至ってはめんつゆ一発…工夫のためのインフラがそもそも揃ってないのだ。

世の中の貧乏人に、料理上手が多くいるとは思えない。貧乏ゆえに扱う食材も限られ、炒める茹でる調味料は塩かめんつゆのみ、という人の方が主流なのではなかろうか。
キッチンペーパーは食べられないし、尻を拭くには単価が高い。


そんな料理無精人にとって、これらの節約料理の道は敷居が高く、食に深いこだわりをもつ人間だけが通ることのできる道と言えよう。



ならば、料理無精の貧乏人のとる道とは…?


私の場合は、むしろろくなものを食わずに生活する。


金がないとはいえバイト代の入る月半ばだけは、私も多少金銭に余裕ができる。それまで中途半端にものは食わずにひたすら食への意欲を高め、来るべき日に何を食べるかを想像しながら腹をグルグル鳴らす。


中途半端にお金を節約して凌ぐぐらいならいっそ他のことに全部使っちゃって、後の楽しみをより楽しいものにしようという刹那系男子の行き様である。


また空腹のなか想像する食べ物は決して豪華なものではなく、B級グルメでもない。
至って普通の、安価で提供されているファーストフードだったり、はなまるうどんだったり、両手一杯のコンビニおにぎりとお茶だったりする。


日頃食べているちょっと好きな食べ物をなんの気兼ねもなく食べる、そんな想像に涎がどろどろ出てしまう。普通であることの良さを腹で感じる。


貧乏空腹状態での私の心理はこんな感じなんだけど、これは塀の中の囚人がシャバに抱く郷愁と同じなのではなかろうか?
空腹を紛らわそうとある漫画を読んでいたら、そんなことに気づいた。

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お金がない私の、お金を使わないと回収できない欲

・ご飯が食べたいな
・漫画が読みたいな

という欲求、加えて

・料理技術やうんちくがない

という個人的な希望を全て拾ってくれる漫画がこちら


土山しげる「極道めし」


刑務所内最大の飯イベント、正月のおせち料理をかけて囚人達の熱いバトルが繰り広げられる、という話。囚人たちは各々「人生で最高に上手いと思った飯の話」を披露し、一番食いたいと思わせたやつが勝ちというバトル方式なんだけど、出てくる飯のチョイスが凄く良い。

駅の立ち食いそば、フルーツ缶詰の汁、おにぎり、野沢菜など…日常的に食べているなんてことない食べ物をが最高に旨い飯に変わるシチュエーションを語ることで、グルメとして特化しない普遍性のある食欲として、周りの囚人と読者に訴えかけてくる。



今食べることができない「普通の食事」への思いを塀のなかで膨らませ「ムショから出たら○○を一番に食べに行くで!」と意気込む囚人たちが、今の自分と重なってますます腹が減る。



グルメ漫画は独自の調理法や素材の活用によって味の深みを生み、その旨さを絵と形容修飾によってどれだけ読者に伝えられるかが肝だとするならば、それには表現の限界が常につきまとう。

味覚を文章で伝えきるのは少し無理がある。読者の経験と想像に委託されている部分が大きく、まして大して旨いものを食ったことがない人間には、その料理がどんな味のコントラストを生んでいるのか想像すらできない。

そのなかで、誰でもその旨さを共感できる土山しげるのめし漫画は、貧乏人の空腹に訴えかける力がもっとも強く、またグルメとは呼べない日々の食事の素晴らしさを教えてくれる漫画でもあると思う。

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(欄外)刑務所のおせち料理

花輪和一「刑務所の中」の場合


土山しげる「極道めし」の場合

雑煮と甘味は共通。米物が出たり年越しそばがカップ麺だったり、刑務所ごとに色々とバリエーションがあるらしい。結構旨そう。


三ヶ日もなかなか豪勢なものが出るらしいが、古い米を使った銀シャリよりいつもの麦飯の方が旨いなんてこともあるらしい

「臭いめし」というのは過去のイメージで、今ではその辺の貧乏学生より良いもの食べてるぐらいが主流らしいよ…腹へった

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婆婆


爺好きは世の中かなり多いように思う。政界や企業の経営陣、町工場の職人など年季がかった熟練の老士、彼らに深みを感じることは年を重ねた人間であれば容易であろう。

フィクションにおいても爺が主要な役回りを担うことが多く、私たちは常日頃魅力的な爺に触れる機会を十二分に与えられている。


一方、婆はどうか。
ババアが好きな人はどれぐらいいるのだろうか。年増に対する蔑称ではなく、喜寿クラスのネオシワクチャババア、老婆に人間的な魅力を感じている人はどれだけいるのだろう。

ノンフィクションの現実世界において婆がピックアップされることはあまりないし、人が婆の良いところを見つけるための機会は非常に少ないのではないかと思う。


しかし私は婆が好きだ。
正確には、婆の持つ生活・知恵
・正論・不条理の要素が好きだ。
そして、それらを全て足し合わせた結果生まれる「老婆心」という精神に、えもいわれぬ魅力を感じるのだ。

なので良い婆が登場するフィクション作品に出会えることを強く望んでいるし、見つけると食い入るように取り組む。幸い漫画には婆がよく出るので、私の欲求はある程度満たされているのだ。


婆の魅力は爺に負けず劣らぬはずだと思っている。



「生活」
数十年一家の家事を切り盛りし家計のやりくりに脳髄を絞り上げてきた婆は、生活力の塊である。

三浦靖冬「薄花少女」

最近流行りの若返り幼婆。
80歳の使用人が、なぜか幼女の姿になってぼっちゃまのもとにやって来る話。


私は婆の臭いを感じない属性としての「ロリババア」は苦手だが、婆の年季の高みを持つ幼婆は好きだ。
外見をマイルドにすることで婆の魅力がよりダイレクトに伝わるからだ。

手原和憲「ミル」

実家の老猫(16歳の時に猫叉となり、実際は86歳)が人間の姿になって飼い主のもとにやって来る話。猫叉になった時点での年齢が外見に対応するため、見た目16歳の婆。
猫と老婆という、わたしにとっては最強の組み合わせだ。


「知恵」
爺婆共通の要素、年の数だけの知識を持ち生き字引として次世代に情報を口伝する。部分的な情報強者である。生で体験したことだけを知識として沈殿させた特濃知識風呂だ。
西原理恵子「ぼくんち」





「正論」
倫理・人道に反する行為を嫌い、他人に対しても何よりも真っ当であることを強要する。正論ゆえに反論しようがない面倒さがある。
新井英樹「愛しのアイリーン」

40歳独身息子にお見合いさせようと必死。岩男はこの後婆の声を無視してフィリピン娘と結婚する。


「不条理」
正論を語る一方で、自分にとって都合の悪い正義は堂々と無視する。清濁併せ持つというより、自己矛盾に開き直ることのできるタフな精神を持っている。
土山しげる「極道めし」


暴力団のヒットマンとしての仕事に失敗し逃亡の末実家にたどり着いた息子に、なにも言わず飯を振る舞う婆、追いかけてきた刑事に対して啖呵を切る。


後ろ二つはマイナス要素であるようにも思えるが婆になくてはならないもの、若年層を叱責する能力を表すものだ。

ウン十年の歳月を経て凝り固まった持論が、人を叱りつけるための地盤となって全く揺るがない。
その腰の強さも老婆の魅力の一つだと思うのだ。


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私は母性神話を礼賛するわけではないが、「老婆心」なるものは確実に存在するしいかなる糞ババアにも内在すると信じている。慈愛の発展形だ。


母性は老婆心の前段階であり、他へ働きかける力は老婆心の方が強く、母性→老婆心と進化した精神は最終的に神の無差別愛の段階に到達する。
母→婆→神である。
GodmotherがGodになる。


遠藤浩輝「EDEN」という漫画はまさにその例である。



(以下ネタバレあり)
この漫画には見た目12~3歳の機械の体に脳を移植した、かつて8人の子を産んでは捨てヤッては捨ててきた41歳の糞ビッチが登場する。

彼女は身体の感覚を自分のものとして認識できない性質で、当然自分の子供に一切の愛着を持つことができず、生後すぐの赤子をナイフで切りつけるなど非人道的な精神を持っていた。

が、機械の体に移ってからは感覚や感情というものに興味を抱き始め、母性に似た感情を他人に向けるようになる。


そしてラストには、人類全体の憎悪や苦痛を底無しの愛で受け止めて別宇宙へと導く、女神としての役割を担うことになる。




神に近い精神を持つ老婆が若い肉体を持って現れる、最近流行りのロリババアとは、神話の疑似体験に近いのかもしれない。
妖怪や土地神を題材にした古典的なフィクションでは、神が若い肉体を持った人間の姿で現れることが多い。

何でもかんでも古典にルーツを求めることをよしとするわけではないのだが、作り手の創作意欲や読み手の欲求には、新旧通じるものがあるのではないかと感じる。

そして婆には神に近い精神が備わっていて、そこに魅力を感じる人間が少なからず存在することがわかる。

それでも婆はそのままの姿では主人公にはなれない。若返りという闇ルートを通過したものだけがその特権階級に進むことができる。
これでは婆好きはなかなか育成されないし、ロリコンばかりが増えていくかもしれない。


若い肉体だけでなく
もっと婆を
婆に光を

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富士山さんと誘導尋問

世界遺産になったらしいですね
Googleで検索すると「噴火」ってサジェストされるんですよね

外国人は日本語の重箱読みに喧嘩を売るかのごとく「FUZIYAMA」と、それを呼びますね


さて

今漫画アクションで連載されている「富士山さんは思春期」っていう漫画が、私のなかで色々と心にチクチク来てるのでその話をします。


~あらすじ~
身長160cmの男子中学生・上場くんがクラスの男子に頼まれてマドンナ青木さんの着替え写真を盗撮しようとしていると、青木さんと更衣室の窓との間に巨大な壁が立ちはだかる。
それこそが身長181cmのバレーボール部のエース富士山さんである。絶好のチャンスを逃したと思ったその時、上場の目に富士山さんの衝撃的に豊満な肉体が飛び込んでくる。咄嗟にシャッターを押した上場は偶然撮れた富士山さんの盗撮写真に悶々とし、性欲のブーストを受けて富士山さんに付き合ってくれと告白。なぜか富士山さんはそれを快諾し、以降周囲の目を気にしながら不器用にイチャイチャする二人の思春期が描かれる。


という、なんとも胸の痛くなる雑誌を力任せに引き裂きたくなる、私がもっとも苦手とするタイプの青春漫画のはずなんですが、なぜか毎話毎話食い入るように読んでしまっています。


作中、富士山を見る上場君の目はエロの塊です。しかし富士山さんはそのことに一切気づいておらず、殺人的な肉体をよそにただただ健康的で真っ当な振る舞いをします。


汗まみれ


スパッツ着用本気ダッシュ



その、本人はエロの意識はないのに、周りはがっつりエロ目線で見てしまう感じ

健康的で無垢な精神と成熟した肉体とのギャップ


そしてそれを見る人間のちょっとした罪悪感

目のやりどころに困る人


昨今そういう「これをエロいと取るかはあなた次第」みたいなものが増えてきたように思うんですよね。
某からだを巡るお茶とか、某カルピス、某アイスのCMなんかはまさにそれで


露骨にエロを想起させるなにかを仕込みながら、それを前面に出さず「これみよがしな演出に見えるけど、それは私の心が肉色に染まってしまっているからなのかもしれない…」みたいな自責の念さえ生むような、誘導尋問的な演出

万が一それをエロスと絡める人間がいれば自信をもって「何言ってんだこの助平は」と言える態勢がしっかりと整ってる感じ

そこに火種はないんだけど松ヤニが大量に落ちてて「火着ける着けないは自分次第だし放火したら捕まるけど、松ヤニには火を長持ちさせる機能があるらしいね」って書いた木製の看板がある感じ


例えば深夜番組の「全力坂」
YouTube動画
都内各地の趣ある坂道を、売り出し中の女性アイドルに全力で駆け上がらせるだけの短い番組

ただ走ってるだけなのにカメラアングルが怪しげだったり、登り終えて肩で息するアイドルのアップを写したり、何だか凄くこれ見よがし

何かやらしいものを感じる一方で、ちょっと坂道の魅力にひかれている自分がいたりで、エロとは断言できない


ただ、昨今のCMにしても「全力坂」にしても、六割方エロ要素で構成されているものを隠匿するのは無理がある話で、そこに気持ち悪さを感じる人も多いのではないかと思います。
コラムニストの北原みのり 氏「テレビ朝日の「全力坂」と「美 少女ヌードル」は気持ち悪い」


なのでもっと分かりにくく、1割程度のエロ要素を九割の正義で隠すような、日本古来の秘め事精神を持つものに期待がかかります。

そして漫画で言えば
「たべるダケ」

正体不明の女の子がいろんな土地、店でとても美味しそうにご飯をたべる、というそれだけの話。周囲の人間は食事をする少女の唇、喉、腕、満足げな顔を見て得も言われぬ感動を受ける。

彼女の食いっぷりに感化され皆無言で飯を食う


ただ飯食ってるだけなんですけど、描写が何か怪しい。唇の艶やら滴る汗やら食いこぼしやら…どれをとっても食事のワンシーンでしかないはずなんですが、艶かしさが異常なんです




作中、女の子はほとんど喋らずひたすら食います。
実写ドラマ化が決まっているらしいのですが、その点がどれだけ再現されるのかちょっと楽しみです。


「ザワさん」

名門男子野球部、唯一の女性部員都澤理沙、ザワさんの日常を描いた漫画。

健康的な男子高校生に囲まれて生活するザワさんが、野球部員としては平等な関係を保たれながら、日常生活においてうっかり性的な目で見られたり、という非常にモヤモヤした気持ちになれる漫画です。

野球部は足が日焼けしない

性差

さらにこの漫画の面白いところは女子であるザワさんだけでなく、周囲の男子達をもフェティッシュな目線で描いているところで、 汗に光る坊主頭や擦れてテカテカになった学ランなど、高校球児のむせかえるような男臭に着目する女性作者ならではの癖が感じられます。

高校球児の尻三連発

撫でたくなる坊主頭


スポーツの爽やかさは絶対、そこにエロなんてあるわけないだろうと主張できる最強のツールですよね



こういうスレスレ感のある演出に、何だかいろんな可能性を感じてしまうのです。ドラマとかでもこういう良い寸止めで、エロを合法化するスタンスが増えたら面白いんじゃないかって

主要人物の一人が指に絆創膏を貼ってるんだけどそれについて一切触れられないとか

水を飲むシーンがやけに多いとか

キャリアウーマンのスーツが腰のあたりだけヨレヨレとかね


それで「そのエロ描写は倫理上よくない」なんて抗議されたら、「何勝手にエロい妄想してるんですか引くわ…」と押し退けることができるわけで、今後テレビ漫画アニメ業界はエロに関して規制の風が強くなる一方で、どんどんあざとくなっていくのだろうなぁなどと感じています。


なので今の流れでいけば「富士山さんは思春期」的な青春合法エロ実写ドラマが作れる日がくるんじゃないかななんて思います。


児ポ法を掻い潜れそうな合法ロリ漫画みたいのも最近増えてますしね。

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金田一蓮十郎の勇者学

「ジャングルはいつもハレのちグゥ」でお馴染みの金田一蓮十郎先生。その可愛らしい絵柄と邪悪なギャグセンスに、連載当時小学生だった私は衝撃を受けました。


あれから十余年、今再び金田一蓮十郎漫画が私のなかで熱いコンテンツとして盛り上がりつつあります。


金田一蓮十郎は2012年、ヤングガンガンにて「ニコイチ」(単行本全10巻)の連載を終了。現在講談社デザートにて「ライアー×ライアー」、ヤングジャンプにて「あるみちゃんの学習帳」を連載しています。

上記の作品に共通する要素、それは

・主人公が二つの人格を演じる二重生活を送るということ

・苦難を乗り越え最終目的の達成に向け少しずつ前進していくという、RPGに似たストーリー

・爽やかな文章とえげつないギャグの両立

金田一蓮十郎作品には王道とも言うべきポップな面白要素がいくつも含まれていて、それはさながら肉体精神共に優れたRPG的勇者にも似た最強の万能性を持ったコンテンツだと思うのです。

具体的な例として、今さっき読み終わった「ニコイチ」を取り上げたいと思います。



さてこの「ニコイチ」という物語はどんな話なのかというと、

大体こんな感じの話です。主人公(男)は事故で亡くなった昔の恋人の息子・崇を預かり、女装技術を磨いて母親として何も知らない崇を育て上げることを決意。会社員(男)と母親(女)の二役を生きる二重生活を送ることになる…という話です。

相変わらずの凄まじい苦労人設定ですね。


この物語、最終的なゴールは第一話から最終話まで変わらず「主人公が、何も知らない息子の崇に全てをカミングアウトして理解を得ること」です。

立ちはだかる様々な困難(狙っていたはずの女性に女装時の姿を好かれてしまう)

(息子にレズビアンと勘違いされるetc)

を乗り越えて徐々に理解者(仲間)を増やしていく主人公

また息子へのカミングアウトが成功したかと思いきや、息子の受けたショックは見た目以上に大きく遂には息子が家出しまう事態になるなど

ラスボス(カミングアウト)の強大さを改めて示す負けイベントがあったり、ラスボスを倒したかと思いきや真の敵は別に存在し、真の平和を目指し物語がさらに進んでいくような、この構成。さながらDQ6のようなRPG展開です。

この王道とも言える物語構成に独特の面白さを加えるのは「ハレのちグゥ」時代からの金田一蓮十郎の持ち味、毒気です。

話が進むごとに到底解決できそうにない誤解やいざこざを主人公にぶつけまくり、ひたすら精神的課題を植え付ける、それが金田一蓮十郎漫画の定番です。

こういったえげつないストレスを主人公に与える一方で、シリアスな場面では非常に重みのある台詞が飛び交います。



毒のある人、性格の歪んだ人、頑固の人、偏屈と呼ばれるこれらの人間の口から吐き出される純粋な言葉は、さながら岩清水のように澄みきった珠玉の台詞足り得る、と私は思っています。

松本零士、宮崎駿、西原理恵子、遠藤浩輝、ジョージ秋山、古谷実や三島由紀夫など、偏屈な精神を持つ人間ほど、ろ過にろ過を重ねた清らかな言葉を生みます。

その純度は、綺麗事や感動ものが大嫌いな屑の私がうっかり感動してしまうほどです。

金田一蓮十郎もまた強力な毒を持ちながらも非常に純粋な言葉を産み出す性質の人間なのだと思います。
女装生活をする父親というえげつない設定をギャグとして扱う一方で、主人公の抱える人生の問題には一つ一つ丁寧な解決策を提示しており、物語全体を通して非常に真面目で清々しい雰囲気を醸しています。




王道的なストーリー構成、変身願望を鷲掴みにする二重生活という設定、そして邪悪なギャグと清廉な台詞…非の打ち所のない勇者さながらの万能の力強さを持つ彼女の作品に、今後も注目していきたいと思います。

そういや「ハレのちグゥ」にもRPGチックな話がありましたね


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